〈第2回〉天理野球復活の軌跡【前編】
天理野球の申し子・中野真隆さん×伊勢谷スポーツ倶楽部
天理高校野球部の甲子園出場回数54回は全国4位、通算78勝は全国6位の記録だ。「天理」の名が甲子園に轟くのは今も昔も当たり前の景色。そんな野球部が90年代後半から00年代前半にかけて苦しんでいたことをご存知だろうか?
中野真隆さんはその苦しい時期に入部して、最後の夏に6年ぶりの甲子園に導いた「復活のエース」。今回は中野さんの目に映った天理野球復活の軌跡に迫る。
野球が導いてくれた「天理」
―なぜ天理中学に入学されたんですか?
小学6年生の時に天理高校野球部が春のセンバツ甲子園で優勝して、憧れがありました。担任の先生が関本賢太郎さん(天理高校OB・元阪神)の担任をされていた縁もあり、天理への道を後押ししていただきました。父が野球、母がソフトボールをやっていたのも大きかったですね。
天理中学に行ったら、天理高校に入れるんじゃないかという安易な考えで入学しました。
―天理中学野球部の同期には、共に天理高校で活躍した籾山幸徳選手や笠井要一選手もいたので強かったんじゃないですか?
私たちの代はそんなに強くなかったですね。確か県大会の1回戦負けでした。奈良県全体のレベルが高かったような気がします。
ただ、うまい選手は多かったです。籾山は大阪から通学していたし、私も含めてセンバツ優勝した天理高校に憧れて天理中学に入学した選手が多かったと思います。
―中野さんは天理高校に入学して早々、春季奈良県大会に出場していましたよね?
2回戦の智弁学園戦(2-9x)ですね。当時、秦裕二投手(元横浜)や岡崎太一捕手(元阪神)がいて、甲子園でも活躍したスター軍団でした。私が8回裏に登板して、タイムリーヒットを打たれてコールド負けしました。ボコボコに打たれて、試合になってなかったように思います。
私と籾山、中村圭介は入学してすぐの練習試合から使ってもらっていました。
―入学当時の野球部はどうでしたか?
1997年のセンバツ優勝以降、下火の時代が続いていました。私自身は初めての寮生活の不安や規則の多さに、毎日を生きるのが精一杯という感じでした。
それでも1年春の段階で智弁学園と戦うことができ、実力差を感じられたことは良い経験になり、より一層頑張ろうと思えました。
―迎えた夏の奈良県予選、1年生が多数出場していましたね?
1回戦の奈良商業戦(11x-3)は私が先発して、籾山もショートで出場して活躍しました。2回戦の添上戦(10x-0)も先発して完封したんですけど、3回戦の高田商業戦(7-12)は中村が先発して負けました。悔しいというより、正直自分たちの実力通りの結果だったように思います。
私達の代からスポーツクラスに野球部枠が復活して、中村やキャッチャーの高間啓介がいました。中村は中学で140キロを投げていて、身体も大きく、スカウトの方もよく来られていました。私より注目される選手で、非常に能力の高い選手でした。
全てが変わりはじめた「山下世代」
―3年生が引退して新チームがスタートしてからの雰囲気はどうでしたか?
2年生の代になって主将の山下泰佑さんが親身に関わってくれたんです。寮内の規則を少しずつ変えたり、プレーに関しても私達が先輩方に意見を出せるようにしてくれたんです。みなさん本当にいい先輩で、そこから全てが変わったように思います。そして監督が森川先生に変わり、野球に対する考え方が全て変わりましたね。
―森川先生は具体的にはどんな指導をされたんですか?
基本の反復でした。最初私達は「基本」がまったくできていなかったんです。ずっとキャッチボールをした日もありました。ボールを相手の胸に投げることができない、そもそも野球になっていなかったんです。
ゴロの取り方もひたすら練習しました。森川先生はノックを打つのがすごくうまくて、内野ゴロをゆっくり打つんです。それをきちんと処理できるか。雑な捕球や送球をするとすごく怒られました。
―新チームになって手ごたえはありましたか?
ありましたね。チームが結束しているのを感じました。練習試合を重ねるうちにだんだんチームが強くなっているのを感じましたね。
―センバツ甲子園につながる秋季奈良県大会では3位に入りました。
準決勝の郡山戦(9-10)、劣勢の展開で、しかもピンチの場面で左中間に打たれた大飛球をセンターの山下さんがファインプレーしたんです。そこで一気に流れが変わって、ベンチも「行けるぞ」って雰囲気になりました。最後は不運な形で逆転されて敗れたんですが、3位決定戦の斑鳩戦(6-0、現法隆寺国際)に勝って5年ぶりに近畿大会出場を決めました。ようやく近畿大会に行けるって感じでした。
―近畿大会1回戦、報徳学園戦(5-6x)は大熱戦でしたね。
報徳は本当に強かったです。報徳の試合前ノックを見ていたんですけど、「全員プロ野球選手なんじゃない?」ってレベルで、正直ヤバいなと感じました。
実は数日前に兵庫県大会の報徳のビデオをみんなで見て、強さに圧倒されていました。その時、森川先生から「ストレートは振るな」「変化球を狙え」と指示があったんです。いざ試合が始まると、1回表に大谷智久投手(元千葉ロッテ)から変化球を狙って、連打で3点取ることができました。私も大谷投手から2安打しています。
終盤に追いつかれ延長に入ったんですが、報徳の底力が半端なかったです。有り得ない強さでした。
私が先発したんですが、報徳打線全員のスイングスピードがすごくて、投球の組み立てを考える余裕もなく、ただ必死に投げていました。
私はボールを低めに集める投球スタイルで、打たせて守備陣に任せる、それで打たれたらキャッチャーの高間のせいだと思って投げていたので(笑)。投球のリズムが良くないと攻撃に繋がらないので意識していましたね。
―そのリズムの良さで報徳打線を抑えたんですね。
必死過ぎて覚えていないんですよね。延長11回に打たれてサヨナラで負けたんですが、試合後も放心状態でした。
ただ、結果的に報徳は近畿大会優勝、冬の神宮大会優勝、翌年のセンバツ甲子園でも優勝。勝っていたら大金星でした。センバツも確実だったと思います。
でも今になって思うと大学生と中学生くらい力の差がありました。そんなチームと接戦をできたのは大きな自信になりましたね。そこから一気にチームが伸びていきました。先輩方には申し訳ないですが、負けて良かったと思います。勝っていたら私自身天狗になっていたと思います(笑)。
「一からやり直さないと」
智弁の強さが教えてくれたこと
―2年生になり夏の奈良県予選を迎える直前に、籾山選手が怪我で離脱したんですよね?
籾山は2年生で主軸を打っていました。柔道の授業で右手を怪我したんですが、休み時間に森川先生に報告に行った時に大激怒されていたことを今でも覚えています。森川先生が退職された時に、「監督に就任した時、山下の代では甲子園は絶対に行けないと思った。でも、練習や試合を重ねるごとにもしかしたら夏の甲子園行けるんじゃないかと思った。」そう仰っていたんです。だからこそ、籾山の怪我は森川先生もショックだったと思います。
―迎えた夏の奈良県予選は接戦を勝ち上がっていきましたね。
2回戦の斑鳩戦(2-1、現法隆寺国際)、3回戦の郡山戦(3-2)と強豪相手に完投で逃げ切れました。準々決勝の桜井戦(5-4)はリリーフで投げたんですがしんどい試合を勝ちきれました。
―ただ準決勝の智弁学園戦(2-12)は大敗でしたね。
完全に力負けでしたね。公式戦で唯一ホームランを打たれたのがこの試合でした。智弁は橿原球場(現佐藤薬品スタジアム)に全校応援で来るので、球場が赤一色の大応援団なんです。もう序盤からボコボコに打たれました。1年春、2年夏と大敗して、智弁を倒さないと甲子園に行けないのかと思うと、一からやり直さないといけないと感じました。ただ智弁の応援の雰囲気を経験できたのは良かったです、本当にすごい応援なので。この経験を活かして、私達の代で勝たなくてはと感じましたね。
甲子園を狙えるチームへ
―新チームは下級生から試合経験のある選手が多く、期待も大きかったように思います。
実は周囲の期待は感じていなかったです。いつも準決勝で負けていたので、正直甲子園も見えていなかったですね。秋季大会が始まる時も「近畿大会までは行こう」って話していました。
秋季奈良県大会は決勝で斑鳩に5-6で負けました。優勝はできませんでしたが、2位で近畿大会に出場することができました。
―近畿大会はどうでしたか?
1回戦で兵庫1位の育英に1-6で負けました。この時思ったのが、天理高校は練習試合でも相手校が親里球場に来てくれるので、遠征の経験がなかったんです。西京極球場(京都府)で開催されたので、バスで移動した初めての遠征でした。そういうことにも慣れてなかったように思います。(1年秋の近畿大会は橿原球場で開催)
この敗戦でセンバツ出場の可能性が消滅したので落胆も大きかったですね。そして冬の練習頑張ったんですよね(笑)
―厳しい冬練習だったんですね?
そうですね。一つ下の代からは森川先生が呼んできた選手が多かったので、前年の冬練習と全然違うというか、レベルがすごく上がっていましたね。私たちの代は基本からスタートしましたが、下級生は基本から派生した一つ先、二つ先の練習をしていました。いまプロで活躍している西浦直亨(現東京ヤクルト)や中村奨吾(現千葉ロッテ)の代は更にレベルの高い練習をしていたと思いますね。
―3年生になり迎えた春季奈良県大会は決勝で智弁学園を6-4で倒しましたね。
私はライトで出場していて記憶があまりないんです。森川先生から「春の大会は投げないから」と言われていました。春は他の投手が頑張ってくれました。だから智弁戦も「あいつら凄いな」って客観的に見ていました。
―近畿大会でも準優勝でした。
初めて近畿大会で勝ち上がったんです。遠征をして勝つ経験ができたのは大きかったですね。決勝の相手の近江高校は球場の近くに学校があって、気付いたら近江が全校応援になっていました。びっくりしましたけど、その中で近畿の決勝を戦えたのは大きな経験でした。
―当時の天理はどんな野球をしていましたか?
守りの野球ですね。3点取って2点に抑える。基本的に野球は9イニング中、3回しかチャンスが来ないんです。必ず攻撃の山場が3回あるので、そこできちんと得点する、逆に守備の山場をしっかり抑える。
この時には奈良県で勝負できる手ごたえを感じていました。1年生で眞井翔太が入ってきたことが大きかったですね。眞井は自分のバッティングのポイントが分かっているんです。だからそこにボールがきたら逃さない。すぐに3番を打っていましたね。私達も眞井には自由にプレイさせていました。凡打すると顔に出ることもあったんですけど、とにかく眞井には気持ちよくプレイしてもらえるように心がけていました。この時には上下関係もほとんどなく、フレンドリーだったと思います。
―最後の夏の奈良県予選は興奮しました。
初戦の生駒高校戦(6-0)で完封したんですけど、1年夏に比べると試合運びが全く違って2年間の成長を感じましたね。ただ、準々決勝の奈良工業戦(3-2)は9回無安打に抑えたんですけど、エラーが絡み2失点。打線も相手投手を打ちあぐねて、最後はエラーで勝ち越しました。完全に負け試合なんですけど、そこを勝てた。この夏は正直負ける気が全くしなかったんです。
準決勝の奈良大付属戦(13-6)は大勝、そしたら智弁が郡山に負けたんです。郡山ありがとうって感じでした(笑)。
「悲願」が演出した
球場全体の一体化
―決勝の郡山戦(8-3)は感動しました。
私が先発して、6回表に犠牲フライを打たれて1-3になりました。正直かなり限界で、ここで降板してライトに回りました。
―その後、伝説の6回裏の攻撃でしたね。
あの回で一気に流れが天理にきました!3番眞井がヒットで出て、籾山がレフト線に長打で三塁二塁。ここで私に打席が回ってフルカウントからフォークを見送って四球だったんですけど、当時いろいろな人に「あのフォークによくバット止まったな」と言われました。あの四球は今思うとかなり重要だったと思いますね。
満塁で6番中村がセンター前タイムリーで2-3と1点差。なお満塁で高間が右中間に走者一掃の二塁打で逆転しました。二塁から私が還ってきて逆転したんですけど、一塁から中村も還ってきて3-5、もう興奮して中村と無意識にハイタッチをしていました。永らく甲子園に出ていなかったので、球場全体が一体化していて、応援の後押しも凄かったですね。
―優勝した瞬間はどうでしたか?
まず球場が凄かったです。天理側応援席の人はほとんどの人が泣いているのが見えたんです。みなさんにとっても悲願だったんですよね。
校歌を歌っている時は感動ですよね、その後応援席に挨拶に行きました。私は動けなくなるくらい泣いていたみたいなんですけど、全く記憶にないんです。肩の力が抜けたというか、プレッシャーを感じていたんでしょうね。応援席のいろいろな方から「おめでとう」と言っていただき感謝しかなかったです。籾山はずっと泣いていましたね。
―優勝した時は、両親への感謝の気持ちでいっぱいだと答えていましたね。
両親にとっても悲願でしたね。今でも実家に当時の写真を飾ってくれています。ただ試合後は両親への取材がすごくて大変だったみたいです。
―パレードが感動したんですね?
7年ぶりの優勝だったので私たちはパレードがあるって知らなかったんです。コーチ陣もほとんど知らなかったそうです。
球場から白球寮に帰ってきて、ユニフォームのままパレード会場に行くように言われて「え、なにがあるの?」みたいな。何も分からず歩いていたら最高の景色が広がっていました。有名人になった気分でしたね、本当に最高でした。パレードは優勝した人しか経験できないので忘れられない思い出ですね。
伊勢谷の振り返り
「甲子園に出場したのは私たちの代ですが、甲子園の礎を作ってくれたのは山下さんの代です」インタビュー後に中野さんが何気なく発した一言です。
全員が野球に集中できる雰囲気を作り、下級生に親身になってくれた山下世代。中野さんの言葉の端々から先輩のことが好きなのが伝わってきたんです。
実は私は天理高校で山下世代と同級生です。彼らは甲子園には行けなかったけど、後輩が夢を果たす上で必要な轍を残していたことが、何よりも誇らしかったんです。天理復活に欠かせない重要なピースを中野さんに教えてもらいました。
さて、後編では中野さんが感じる天理の魅力を語ってもらいました。お道を通る私自身が「やっぱり天理教はすごいな」と嬉しくなるエピソードが詰まっています。どうぞお楽しみに!
(文=伊勢谷和海写真=廣田真人)
中野真隆さん/ NAKANO MASATAKA
1985年奈良県橿原市生まれ。天理中学を経て、天理高校では1年春から主戦投手として活躍。3年時に7年ぶりの夏の甲子園にエースとして出場、ベスト16に導く。卒業後は、東京農業大学北海道オホーツクに進学、3年時に全日本大学選手権に出場。現在は東京都内の一般企業で勤める。左投げ左打ち。
伊勢谷和海/ ISETANI KAZUMI
1984年愛知県生まれ。天理高校、天理大学卒業後、天理高校職員(北寮幹事)として勤務。好きなスポーツは野球・陸上・相撲・ラグビーなど多岐にわたる。スポーツが好き過ぎて、甲子園で校歌を数回聞くと覚えてしまい、30校以上の校歌が歌える。スポーツ選手の生年月日・出身校も一度見たら覚える。高校野球YouTubeチャンネル「イセサンTV」を開設。ちまたでは「スポーツWikipedia」と称される。
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