〈第2回〉「心に刻まれた 、 天理教の 方々 の温かさ と 偉大さ」 天理野球の申し子・中野真隆さん×伊勢谷スポーツ倶楽部【後編】
天理高校悲願の甲子園出場を果たした中野さんは、卒業後、北海道網走市で大学野球を続けた。
結果が出ずに苦しかった時、中野さんは近くの教会に参拝をしていたそうだ。
そこには、懐かしさと共に教会からにじみ出る「温かさ」があった。
今回は中野さんの心に刻まれている、天理教の方々から感じたお道の素晴らしさに迫っていく。
後輩達への基盤になった悲願の甲子園
―甲子園はどんな場所でしたか?
初戦が第一試合だったので、甲子園でアップができたんです。観客席に誰もいなくて静寂に包まれた甲子園、そこにベンチから足を踏み入れた瞬間の光景は今でも夢に出てきます。本当に最高の瞬間で「これが憧れの甲子園だ!」って思いましたね。
試合開始が近づくと、どんどんお客さんが入ってきて、人の多さに驚きました(笑)。実はマウンドから観客席が良く見えるんです。
あと嬉しかったのが、甲子園に出場するとユニフォームが新調されて、左の腕章が銀色から金色になるんです。これは甲子園に出場しないと与えられないユニフォームなので感動しましたね。
―2回戦から登場して、ベスト16まで進出しましたね。
初戦の秋田高校(秋田)は粘り強いチームでしたね。接戦だったのでヒヤヒヤしていました。
ただ、緊張している選手は少なく、冷静に戦えていましたね。私は先発して完投、また3点目のタイムリーを打ちました。そのまま逃げ切り、3-2で勝利することができました。
7年ぶりの夏の甲子園出場で、前回の甲子園で最後のバッターが当時コーチをされていた田中教生さんでした。「天理高校最後のバッターという呪縛が7年間あった」と、田中さんも喜んでおられました。
あと、甲子園で歌う校歌は格別でしたね。青年会歌なので天理高校OB以外の方でも歌えるじゃないですか、それって凄いですよね。テレビの前で歌っている方も大勢いたと思います。
3回戦の聖望学園(埼玉)戦、ピッチングの調子が悪いなりにゲームを作れなかったのが反省ですね。
2-6の6回表の攻撃、チャンスで4番の籾山がタイムリーを打って3点差となり、反撃の勢いが出たんですけど、続く私がセカンドへの併殺打。これも未だに夢に出てきます。捉えた打球でしたが、セカンドの正面に飛んでしまいました。次の打席もセンターライナーで、良い打球が連続で野手の正面に飛び、もう自分自身のツキがなかったように思います。私が普段通りにプレーできていたら、勝機があったかもしれないですね。
―3-7でゲームセット、敗れた時はどんな気持ちでしたか?
泣いてないんですよね。むしろ、やり切った感がありました。甲子園優勝を狙うチームではなく、甲子園に出ることが目標でしたし、学校としても甲子園出場が悲願でしたからね。
翌年は夏の甲子園でベスト8進出、そして4年連続で甲子園に出場してくれたので、基盤になれていたら嬉しいですね。
―中野さんの代の功績は本当に大きいですよね!
自分では言わないですけどね(笑)。
悩んだ時に育んでくれた「教会の温かさ」
―天理高校での一番の思い出に、同期12名とマネージャー2名で甲子園に行けたことを挙げていましたね。
私達の代は仲が良かったんですけど、マネージャーは本当に大変だったと思います。いつもユニフォームを洗ってくれるんですけど、臭いし汚いし。東寮の門限があるので急いで帰寮して、持ち帰って洗ってくれていたと思います。
公式戦の度にマネージャーがお守りを作ってくれるんですけど、中に手紙が入っているんです。私は1年の春季大会からベンチに入っていたので8個持っていて、引退してから中身を開けてすべての手紙を読みましたね。マネージャーは本当に偉大ですよ。
―卒業後は天理に帰る機会はあったんですか?
大学が北海道網走市だったので、天理にはなかなか帰れなかったんですけど、大学の寮の近くに天理教の教会があったんです。大学には高校の一学年先輩の川窪啓之さんと米田達也さんがいたので、一緒に連れていってもらいました。大学で成績を残せてなくて悩んでいたんですが、原点に返る気持ちで教会に行かせてもらっていました。
―教会では心を整えると仰っていましたね。
天狗になっていたこともあり、大学3年までうまくいっていなかったんです。
高校まで6年間、雨でも雪でも毎朝本部神殿で定刻参拝していたので、教会に行くと本部神殿を思い出すんでしょうね。
教会の雰囲気を味わうだけで心が整うじゃないですか。教会に足を踏み入れるだけで良いです。畳が敷いてあって教会らしい雰囲気があって、懐かしさを感じていました。
教会のみなさんが温かいんですよね。教会で参拝して、みなさんと話をさせてもらうだけで心が整うんです。
―すごくいい話ですね。
寮の近くにたまたま教会があったのは有り難かったですね。日曜日は寮の晩ご飯がないんですけど、当時はお金もなくて。そしたら教会の方が気にかけてくれて、夕食に呼んでくださってチャンチャン焼き食べさせてくれたり、庭でジンギスカンパーティーをしてくださったり、とても優しくしてもらいました。
網走って本当に寒くて、-20℃くらいになるんですけど、人の温かさに触れることができて、行って良かったなって思いますね。
―天理に帰ると自然と心が引き締まると仰っていましたね。
関東から実家(奈良県橿原市)に帰る時は、天理東インターで降りて38母屋付近を通ると「うわー、帰ってきた」って思うんです。
東寮前(現12母屋)を過ぎ、天理中学野球部のグランドを通ると懐かしくて、最高ですよね。そのままT字路まで行くと昔駄菓子屋があって、よくパンを買って食べたのを思い出します。左折すると右手に天理中学校があって、さらに行くと左手に親里球場のライトが見えて、右手に白球寮が見えて。実家が橿原球場の近くなので、最後に必ず通るんです。すべてが走馬灯のように蘇ってくるんですよね。
関東にいる時はまったく思い出さないんです。天理に帰った時だけ、当時を思い出して心が引き締まるんですよね。
―中野さんは、天理の人は温かいと仰っていましたね。
天理教の方は助けてくれるじゃないですか。天理を離れて気付けますね。北海道の教会の話も天理高校出身というだけで、あれだけ心を掛けてくださったり。
野球部同期の石田康史の教会と私の父の実家が近所なんです。父の実家に行くと石田の教会に行くんですけど、みなさん私のことを覚えてくださっているし、とても温かく迎えてくださるんです。
最初は黒いハッピが怖かったんです(笑)。中学に入学して天理教に触れて、御誕生祭に参拝してハッピだらけで驚きましたね。あと授業中に、天理小学校出身の子が「二時です」って言ってみんなで遥拝するのは衝撃でしたね。
勝敗より嬉しかった、「偉大な同級生」への恩返し
―忘れられない選手は誰ですか?
籾山ですね。熱くて真面目、言葉で表現するのが苦手なんですが、キャプテンシーがあるんで、みんなが付いていきました。「籾山が頑張ってるから、俺らも頑張ろう」ではなくて、「籾山の姿を見てみんなが育った」感じですね。2年生の岸田宏文や栗田裕章は籾山の姿を見て育った後輩だと思います。
石田は本当に面白い選手でした。甲子園に向かうバスの中でスタメンが発表されるんです。石田は背番号3番だったんですが、ファーストは違う選手がスタメン濃厚でした。バスの中で石田が爆裂トークしてたんです、「どんだけ喋んねん」ってくらい一人で(笑)。そして森川先生がスタメン発表で「ファースト石田」って言った瞬間に黙りだして、めちゃくちゃ緊張しだして。未だに鉄板ネタですね。
でも秋田高校戦9回の守備、ランナー二塁でサードゴロだったんですけど、サードがファーストにショートバウンドを投げたんです。それを石田が簡単に捕球してくれて。あれ捕ってなかったら同点だったのでファインプレーですよね。
―尊敬できる人にマネージャーの水谷さん、杉本さんをあげていますね。
そりゃマネージャーですよ、偉大です。彼女達がいないと成り立たなかったです。
私が甲子園で良かったことは勝敗よりも、二回試合ができたことなんです。二人とも甲子園のベンチに入ることができて本当に良かったです(甲子園は記録員がベンチ入りできるのが各試合一人のみ)。野球が好きでマネージャーやってくれてるのに、女子は甲子園のグランドに立てないじゃないですか。なので本当に良かったですね。
これは大人になってから特に思いますね。もう少し年を重ねて野球部のみんなと集まったら、今だからこそ感じる思い出話ができるんだろうなって思いますね。
天理高校野球部で、同級生12人にマネージャー2人、偉大な先輩方、優秀な後輩達と出会えたことは今でも誇りですね。
伊勢谷の振り返り
「たすけを求めて来られる人には、お腹と心がいっぱいになってもらうことを大切にしてるね」
おたすけの相談をした時にある先輩が言ってくれた言葉で、現在私が日々心掛けていることです。
北海道の教会の話をする中野さんから、お腹と心がどれだけいっぱいになったのかが伝わってきました。教会の中にあふれる、優しさと温かさがプンプンと伝わるんです。
そんな中野さんは、尊敬する人に選手ではなくマネージャーの名前を挙げてくれました。マネージャーのことを語る中野さんからも、彼女達がいかに選手のために時間と心を使い、喜びを与えてくれていたのかが伝わってきたんです。
私は北海道の教会に行ったことはないし、マネージャーのお二人にも会ったことはありません。でも何かいいものが伝わるんです。
もしかしたら、それこそが「お道のにをい」なのかもしれません。
(文=伊勢谷和海写真=廣田真人)
中野真隆さん/ NAKANO MASATAKA
1985年奈良県橿原市生まれ。天理中学を経て、天理高校では1年春から主戦投手として活躍。3年時に7年ぶりの夏の甲子園にエースとして出場、ベスト16に導く。卒業後は、東京農業大学北海道オホーツクに進学、3年時に全日本大学選手権に出場。現在は東京都内の一般企業で勤める。左投げ左打ち。
伊勢谷和海/ ISETANI KAZUMI
1984年愛知県生まれ。天理高校、天理大学卒業後、天理高校職員(北寮幹事)として勤務。好きなスポーツは野球・陸上・相撲・ラグビーなど多岐にわたる。スポーツが好き過ぎて、甲子園で校歌を数回聞くと覚えてしまい、30校以上の校歌が歌える。スポーツ選手の生年月日・出身校も一度見たら覚える。高校野球YouTubeチャンネル「イセサンTV」を開設。ちまたでは「スポーツWikipedia」と称される。
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