〈第1回〉天理ラグビーの申し子/宮本啓希さん×伊勢谷スポーツ倶楽部【前編】
現役時代に輝かしい実績を残し、今年の2月から母校同志社大学ラグビー部の監督に35歳の若さで就任。そんな宮本さんのラグビー人生のベースにあるのが天理での6年間。今回は宮本さんのルーツである天理中学・天理高校時代に迫る。
「本当に濃かった」天理中学時代
―なぜ天理中学に進学したんですか?
生駒ラグビースクールでプレーしてたのですが、啓光学園中学など大阪の中学校に行きたかったんです。だけど当時のコーチの方に「大阪はライバル校も多いし地元に行った方がいいんじゃないか」と勧められました。奈良県でラグビーするなら天理中学だと思ったので、ラグビーをするために進学したんです。その際に両親も別席を運びました。所属は生駒大教会です。
―天理中学ではいつから試合に出場していましたか?
2年生からレギュラーで使ってもらいました。小学生の時はSO(スタンドオフ)だったんですが、FB(フルバック)に転向して関口監督に付きっ切りで動きを教えてもらいました。それ以来FBです。
実は「スクールウォーズ」の影響で高校は伏見工業に行きたかったんですが、中学3年生になって監督に相談したら天理高校を勧められました。もちろん天理高校にも憧れはありましたが、秋の奈良県予選決勝で天理高校VS御所工業を観戦して、6-3の激戦で勝ち、「やっぱり天理凄いな」となりました。
―天理中学ラグビー部での思い出はありますか?
2年生の近畿大会で花園中学と対戦しました。この年何度も対戦して惜敗した相手。僅差でリードしていたのですが、私が3年生のSH(スクラムハーフ)岡本快士さんからパスを敵陣インゴールで受けた後、私のキックが相手からのチャージ(身を投げ出して相手のキックを防ぐプレー)を受けて、そのままトライされて負けたんです。試合後、岡本さんの太ももで大号泣しました。
3年生の近畿大会は初戦で強豪の啓光学園中学と対戦しました。実は新チームになってから無敗で、啓光にも絶対勝てると意気込んだにも関わらず、ダブルスコアで負けたんです。負けてはいけない試合で、今までにない緊張を感じたのが敗因でした。本当に濃い3年間でした。
「3年生に恩返しするぞ」悔しさからの船出
―天理高校に進学してラグビー部へ。1年生の時はどうでしたか?
勾田寮での生活は毎日が大変でした。練習終わって、食事をした後、寮の仕事をしていると23時になるんです。先輩方の洗濯物を干すので、1年生は干し場に溜まるんです。そこでカップラーメンやお菓子を食べながら同級生といろいろな話をしましたね。
―ラグビーではどうでしたか?
1年の4月からFBで使ってもらいましたが、中学とは全然違いましたね。コンタクト練習でもタックルされたら仰向けに倒れていました。
花園の初戦、関商工戦(15-3)に出場したんですが、翌日の練習で足を骨折してしまい、3回戦以降はベンチで見ていました。準々決勝の啓光学園戦(12-32)は啓光が強すぎて、中盤以降から啓光の強さに圧倒されながらベンチで見ていました。
―2年生でもレギュラーで活躍されたんですか?
レギュラーではあったんですが、秋の奈良県予選決勝の御所工業戦は私のキックで負けてしまいました(13-20)。コンバージョンキック(トライ後のゴールキック)を2本外したんです。終盤は7点負けていたのでトライを狙わないといけない。私のキックが決まっていたら3点差なので戦術が変わっていたはずなんです。「俺のキックが決まっていれば」と思いながらプレーしていました。
試合後、寮でBBQをしてくれたんですが、当時の主将のお母さんがみんなに拍手をして「よく頑張った」と言ってくれたんです。それを見て「自分が決めていたら」とまた考えて…2年の時は悔しい終わり方でした。BBQが終わって、その日の晩にミーティングルームに同級生で集まったんです。みんなで「絶対死ぬ気でやるぞ。近畿大会優勝して3年生に恩返しするぞ」そう話しました。悔しさから僕らの代はスタートしました。
―新チームの船出はどうでしたか?
2年生の3月に行われた近畿大会で勝ち進んだんですが、決勝で啓光に7-11で負けました。この年の啓光はモール(ボールを保持して複数人で押し込むプレー)が強かったんですが、正面でペナルティーになった時に、モールではなくPG(ペナルティーゴール)を選択して、結果この試合PG2本決められました。啓光勝ちにきてるなと思いましたね。
宮本さんが高校生活を過ごした勾田寮。寮内に入るのは卒業以来はじめて。懐かしさに笑顔が絶えなかった。
選手の思いを受け入れてくれた監督
―新3年生の4月に開催された春のセンバツ大会(年度末に毎年開催される全国大会)凄かったですね。
春はノーサインでやっていました。SOがボール持ったら全員が走って、SOが一番勢いのある選手にパス出す。相手に接近してからどうするか、天理のカルチャーだと思っているラグビーがハマりましたね。
実は準決勝の伏見工業戦(19-14)は渋滞で試合30分前に到着したんです。アップもせずに試合に臨んで、何とか僅差で逃げ切りました。決勝の深谷戦(41-12)もうまくハマって初優勝することができました。
―センバツ優勝して、高校日本代表も3人いて凄いチームでしたね。
春からうまくいき過ぎました。9月に大阪工大高に負けるまで公式戦も練習試合も無敗でした。ただ6月の大阪朝鮮戦が同点(21-21)に終わったんです。当時不甲斐ない試合をすると「オワラン」というランパスをエンドレスでやる練習があったんです。試合後、中谷監督が「全員走ろか」と言ったんですが、Aチームだけ同点でBチームとCチームは勝ってたので、主将の高島(NO.8高島寅煥)がAだけ走ると言ったんです。監督が「全員で走れ」と言うたんですけど高島が「Aだけでやります」と言って、私達もそれでいいと言ったので、BとCは寮に帰らせたんです。数本走ったら監督が止めて、3年生を監督部屋に集めたんです。「なんであんなことしたんや?」と聞かれたので高島が「あの練習は意味がないと思います。チームが強くなるとは思えないですし、試合でできなかったことを練習した方がいいと思います」と言ったんです。実は以前から同級生でそんな話をして、チーム力を下げるだけにしか思えなかったんです。
―自主的にやらせる学校はあるけど、自主的にやらせてくださいというのは凄く勇気がいることですね。
春に優勝できたという自信もあったと思います。ただホントに凄いと思うのは監督が「どういう練習がしたいんや」と選手に任せてくれたんです。先週も中谷監督にご挨拶いかせていただいて、当時の話になりましたね。
―監督が選手の自主性を受け入れて、花園で結果も残したんですね。
今になって思うと、そこで選手の思いを受け入れてやらせてくれたのが本当に凄いと思います。
必然だった伝説のタックル!
―大阪工大高に負けてスイッチが入ったんですか?
6月にそんなことがあったのに、高校生なんで忘れちゃうんですよね。8月の菅平合宿でも連戦連勝、最終日の国学院久我山戦は64-0で勝ちました。8月末に中国遠征が組まれて日中韓の交流大会でも勝って調子に乗っていたんですよね。そして9月に大阪工大高と対戦しました。そこでFW(フォワード)が完全にやられてスクラムも走られて何もできずに19-40で負けました。かなり落ち込みましたが、そこからFWが凄い練習をするようになりましたね。
―迎えた花園、準決勝大阪工大高戦(26-8)やばかったですよね。
大治(CTB八役大治)の最後のタックルですよね?あの場面は本当に最高でしたね。全員が自分の仕事をした結果でした。
大治は練習が終わると毎日、マーカーを5メーター四方に置いて一対一の練習をしていました。後輩にステップ切らせて、しっかり正面からタックルに入るんです。あんな練習していたらビッグゲームでもあんなタックル出るわなと思いましたね。大治は全試合でディフェンスを詰めてたんです(相手との距離を詰める)。あの試合、ラストワンプレイ敵陣22メーターで相手スクラムだったんですが、大治が「啓希、俺詰めるからな」と言ってきました。絶対にいくと決めてたタックルです。
―伝説的なタックルですよね?
あれでラグビー始めたって子もいたと思いますよ。
王者・啓光の本当の強さ
―決勝(啓光学園戦)に向けてはどうでしたか?
「決勝も絶対に勝つ」と思っていましたが、実は準決勝翌日の練習で体が動かなくて温泉リカバリーだけでした。でも啓光はフルコンタクトで練習していました。それが4連覇を目指す啓光の強さです。最初から優勝を狙って決勝にピークを持っていく。私たちとの大きな差です。
大学で啓光出身の選手がいて、当時の話になると「天理舐めてんのか」「リカバリーしてる時点で俺ら勝ったな」と言っていたそうです。それはそうですよね。だから試合前から勝負は決まっていたのかもしれません。「絶対に優勝する」という気持ちこそ啓光の強さプライドです。そういうチームは強いです。
―実際に決勝戦でコンタクトしてどうでしたか?
めっちゃ強かったです。体も動かないし、大治も啓光戦は一回も詰めれなかったです。啓光は今まで通りのオーソドックスなラグビーではなく、グランドを広く使って、パスも距離も長くして、詰めさせないラグビーをしてきました。
スコア以上に完敗でした(14-31)。あの体の状態だったら10回やっても勝てなかったでしょうね。
―天理高校でラグビー以外の思い出はなんですか?
こどもおぢばがえりひのきしんは北寮に泊まれるのが新鮮でした。みんなで騒ぎながら北寮に帰る、旅行みたいな感じでした(笑)。私はあちこちランドひのきしんで、こどもが来てじゃれて楽しかったですね。普段絡むことのない先輩や後輩、教区の子たちと絡めるのも楽しかったです。勾田寮を出れることも楽しかったです(笑)。
天高祭は北寮ラグビーを見るのが楽しかったです。各階対抗でラグビーをするのですが、僕らボールボーイをしながら、あれだけ熱くなれるって本当に凄いなと思いました。学祭のイベントなのに負けて号泣できるって凄い。きれいなハンズ(隣の選手に順番にパスをしながら攻撃すること)でトライ決めたりして、めっちゃ上手いなと思ってました。東寮の子が来てめっちゃ応援するのも凄いですよね。
―伊勢谷の振り返りー
「あれだけ良い選手がいたら勝つのは当たり前」。ラグビーに限らず、どのスポーツでも耳にする言葉です。当時の天理高校には宮本さんを含めて3人の高校日本代表が在籍していました。「あれだけ良い選手がいたら…」このフレーズが聞こえてきそうですが、対談を通してそんな言葉では片付けられない本当の強さを随所に感じました。
自分たちのためではなく、先輩のために人のために力を発揮できる強さ。
自分たちの意思を普段から共有して、指導者にもしっかりと伝える信念の強さ。
自分たちの役割を認識して、自主的に練習を反復し続けることのできる強さ。
だからこそ素晴らしい成績を残せた。そして2年時の御所戦の悔しさ、9月の大阪工大高戦の大敗、そんな挫折に屈せずにパワーに変えているエピソード一つ一つに何とも熱いものを感じるとともに、チームとしての団結力の強さを感じました。
さて【後編】は中学高校と過ごした天理について語ってもらいました。6年間で目の当たりにした天理の素晴らしさ、そして離れたからこそ感じた天理の凄みを語る宮本さんの心には、まさに「おぢば」が刻まれていました。どうぞお楽しみに!
(文=伊勢谷和海 写真=廣田真人)
宮本啓希さん/HIROKI MIYAMOTO
1986年奈良県生駒市生まれ。幼少からラグビーをはじめ、天理中学へ進学。天理高校ではFBとして活躍、3年時に春の選抜大会で優勝、花園では準優勝に輝く。高校日本代表にも選出される。同志社大学でも活躍して、卒業後はトップリーグの強豪サントリーサンゴリアスに加入。2018年に現役引退後はサントリーのマネージャーを務める。2022年同志社大学ラグビー部監督に就任。
伊勢谷和海/ISETANI KAZUMI
1984年愛知県生まれ。天理高校、天理大学卒業後、天理高校職員(北寮幹事)として勤務。好きなスポーツは野球・陸上・相撲・ラグビーなど多岐にわたる。スポーツが好き過ぎて、甲子園で校歌を数回聞くと覚えてしまい、30校以上の校歌が歌える。スポーツ選手の生年月日・出身校も一度見たら覚える。高校野球YouTubeチャンネル「イセサンTV」を開設。ちまたでは「スポーツWikipedia」と称される。
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