共に苦しみ、共に泣く|第13回薫り人

梅毒、クラミジア、HIVーー。日本では近年、こうした性感染症が増加傾向にある。

そうした中、塩尻大輔さん(45歳・郡山大教会ようぼく・東京都)が医院長を務める「パーソナルヘルスクリニック上野院」では、10代の学生を対象にHIVおよび梅毒検査を500円で受けられる取り組みや、特別価格での診療、匿名での受診といった先進的な医療サービスを展開している。その背景には、アフリカ・ケニアで両親から受け継いだ「世界たすけ」の精神が息づいていた。

第13回目の「薫り人」では、若年層の感染者らに対して、おたすけの心で親身に寄り添うようぼく医師の〝にをい〟と、その原点を探る。


この日の東京は、うだるような真夏日。雑居ビル内にあるクリニックの一室に通されて待っていると、「お待たせしました」と塩尻さんが額に汗を浮かべて入ってきた。

「僕の話をまとめて記事にするのは大変ですから、AIに頼んで原稿を書いてもらったらどうですか?」

入室してものの5分。塩尻さんのユーモアを交えた雑談によって、クーラーで冷え切った部屋の温度が心地よく上がった気がした。目尻にしわを寄せて笑みを浮かべる彼の目は、絶えずあたたかな眼光を放っている。そして、初対面を感じさせない何かがあり、年下の記者には「頼りになる優しい先輩」という第一印象を抱かせた。

塩尻さんは優しく、しかし力を込めた語調で言った。

「僕はお道の信仰が、そして教祖が大好きです。道専務の方々のような通り方はできないけれど、日々の診療が、私にとってのおたすけだと思って真剣に取り組んでいます。『世界たすけ』の世界にもいろいろな分野があると思いますが、性感染症およびHIV予防医療を専門にする私は、〝性界〟のおたすけに力を注ぎたいです」

「良い人だとわかりました。先生を信じます」

「おりものが多くなった」「排尿時に痛みがある」

塩尻さんのクリニックには、陰部に違和感や異常を感じた10代が、若者が安心して医療にアクセスできる体制だと聞きつけ受診してくる。1日100人近く受診するクリニックには約10〜15人の10代(未成年)の受診があり、そのうち4〜5人は中高生だ。大半は1人でクリニックを訪れて、異口同音にこう尋ねるという。

「親にバレるのが怖いのですが、自宅に検査結果の通知や電話はきますか?」

また、来院後に感染症と診断され、「もう一生、やりたくない」と性に対する恐怖を吐露する若者が少なくないという。

塩尻さんは力説する。

「性は人間にとって喜びであり、素晴らしいことです。けれど、日本では性教育や性に関することがタブー視されている傾向があり、性の情報や知識も乏しい。親に相談ができず、誰にも打ち明けられず、お金もないから検査や診療を受けられないと悩んでいる若者がたくさんいます。そして、治療はもとより、性の正しい知識と感染予防を伝えることが性の喜びにつながります。うちに来院する若者は氷山の一角にすぎませんから、そこにどうリーチしていくかが私のミッションです」

あるとき、クラミジア感染症と診断された10代女子の母親からクレームの電話がかかってきた。母親は娘のかばんの中から処方された薬を発見し、怒りで語気を荒げ、取り乱した様子だった。一通り話を聞いた後、塩尻さんは言った。

「お母さま、娘さんを怒らないでください。どうか褒めてあげてください」

理解に苦しむ母親に対して、塩尻さんはこう続けた。

「娘さんは、お母さまにも誰にも相談できず、一人で悩み、そして痛みに耐えていました。そんなつらい状況で、探しに探して『ここだったら』と勇気を振り絞って受診してくれたんです。母親として、どうぞ叱責せずに褒めてあげてください」

母親は静かになり、こう言った。

「なんか、先生が〝いい人〟だということが伝わりました。私は先生を信じます。先生がおっしゃったことを実行します」

取材中、こうした10代の来院者との数々のエピソードを語るとき、塩尻さんは必ず目に大粒の涙をため、時には言葉を詰まらせた。

「だって、つらい思いで受診していると心底分かるし、その子たちの心が元気になったらうれしいんです。診察室で、私はいつもその子たちと一緒に泣いています」

彼はそっと目頭をぬぐうと、鼻をすすり上げた。

医師を目指した原点はアフリカ・ケニア

「患者さんたちは来院時は暗い表情なのに、診察室から出てくる顔はパッと明るくなっています。院長がどんな魔法を使っているのか知りたいです!」

そう語るのは、クリニックのスタッフたちである。

塩尻さんはこう答える。

「ひざを突き合わせて、ただただ相手の苦しみに耳を傾ける。そして、共に涙する。診察室はパソコンとカルテを眺める無機質な〝作業場〟ではなく、何度も言うように、『おたすけ』の現場なんです」

そんな彼の医師としての原点は、アフリカ・ケニアにある。

昭和55年、塩尻さんは北海道函館市で、父・安夫さんと母・美智子さんの間に次男として誕生した。ちょうどその頃、ケニアでは大干ばつが続き、世界中で食糧難に苦しむ子どもたちの姿が連日報道されていた。同57年には、天理教が支援母体となる「アフリカの飢えた子供にミルクを」という飢餓救済キャンペーンが始動。同64年に8年間の緊急支援は終了したが、その熱い志を受け継いだ有志たちが現地に残り、長期的な支援活動を続けることになった。

当初から支援活動の中心にいた安夫さんは、一家5人でケニアへ移り住む決意を固める。平成2年、塩尻さんが9歳のときだった。

しかし、移住して半年後、一つ下の妹が蚊を媒介とするマラリア感染で亡くなるという大きな節に直面する。「そのとき、『こんちくしょう、俺が医者になってやる!』と口走ったそうです。私は覚えてないのですが……」と振り返る。

深い悲しみを力に変え、両親は食糧・教育支援から、地域に病院を建て医療支援を行うという〝方向転換〟を決断した。塩尻さんも高校生の頃からこの病院の巡回診療に参加し、「人を診ること、人に寄り添うこと」に強い関心を抱くようになる。

こうした一連の出来事が、医師を志す原点となった。

やがて「新しい命の誕生に携わる喜び」を知り、産婦人科医の道へ進む。その後、日本での医療従事などの経験を通して自身の進む道を模索する中で、「やはり、原点はケニアだと思った」。ケニアで目にした感染症に苦しむ人々の姿を思い起こし、感染症の分野に深く関わることを決意。最終的に、日本では関心が薄いとされていた性感染症予防医療にたどり着いた。

特にHIV予防薬(PrEP)については、当時の日本では政府の規制が厳しく、国内では入手不可能だったが、塩尻さんは開業と同時に海外から個人輸入の形で予防薬を日本に普及させた。日本初のHIV予防薬提供の先駆けとなり、新規感染者の減少に貢献した。

「薬の提供に関して、最初は学会などから猛反対・大批判されましたが、結果が出たら皆が称賛してくれました。性病の界隈では、僕、案外すごい人なんですよ(笑)」

そう冗談交じりに言うと、少年のような、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべた。

両親の理と情に育まれて

そんな塩尻さんの信仰の原点は、ケニアでおたすけに邁進する父母の姿だった。

「母は信仰に大変厳しい人で、『おさづけ、おさづけ』と熱心なおたすけ人でもあります。そして、幼少から『教祖はなぁ…』とお道のお話を聞かせてくれました」

塩尻さんには忘れられない出来事がある。ケニア・ナイロビ大学在学中、現地の人へ『おふでさき』をより広く伝えるための御用を与えられた。長期休暇中であったため、午前中の合間時間にその作業に取り組み、午後は友人らと自由に好きなことをして過ごしていた。

しかし、毎日午後になるとなぜか必ず頭痛に襲われる。何気なく母・美智子さんに電話で話すと、「あんたな、早く帰ってき」と。言われた通り、車で約2時間の道のりを飛ばして実家に帰った。気づけば、頭痛が消えていた。

帰宅すると、母からこう諭された。

「教祖は約13年かけて『おふでさき』を書かれた。あんたは、どういう気持ちで神様の御用をやってんの。中途半端な姿勢ではだめ。教祖のことを思って、しっかり勤めなあかん!」

「自分の信仰姿勢を恥ずかしく思った」。その日から1ヵ月間、塩尻さんは朝・夕十二下りのてをどりを勤める時間以外は、一日中部屋にこもって『おふでさき』と向き合った。

「母のその時々の的確なお諭しが、私の信仰を培ってくれました」

母親が「理」であれば、父親は「情」の人だった。

「親父はすごい人です。どんな人にも労いの言葉をかけ、良いところを褒める。何でも許せる広い心の持ち主です。いまでも『親父になりたい』と強く思っています」

あるとき、仕事場からすぐにいなくなる怠け癖のあるケニア人の従業員がいた。周りのスタッフが不満を申し出ても、団体のトップである父・安夫さんは「あいつは、ええところがあんねん」とだけ言った。しかし、当時30代前半の塩尻さんは父親に反抗した。

すると、安夫さんから「事実を知らないで、分かったようなことを言ってはいけない」と諭された。聞けば、その従業員は半年前、家族全員を事故で亡くしていた。そして、残された親戚の子供たちの世話で仕事場から一時的に離れては戻りを繰り返し、心身ともに疲弊しながらも、必死で仕事をしていたのであった。

「親父は『うわべだけで人を判断してはダメだ。本質をちゃんと見て、相手の人となりや性格をしっかり見ていかなあかんで』と教えてくれました。親父の情の深さが現在、患者やスタッフに対して分け隔てなく接する姿勢につながっています」

約30年間、ケニアで教育や医療を基盤にしてにをいがけ・おたすけに東奔西走した父・安夫さん。そんな〝ケニアの父〟は、たくさんの人々に惜しまれつつ、令和3年4月15日、72歳で生涯を終えた。

日本とケニアの懸け橋に

インタビューの最後、塩尻さんの今後のビジョンを尋ねた。

「将来的には〝性界のおたすけ〟を、日本だけにとどめず、医療が手薄なケニアにもクリニックのモデルを持っていき、人々の心と命を救っていければと思っています。そんな二つの国の懸け橋みたいになれればいいですね」

そう言って笑顔を浮かべる塩尻さんの表情は、記者が写真で拝見した父・安夫さんの表情そのものだった。その旨を伝えると、彼は今日いちばん、目を輝かせて言った。

「最近、親父に似てるとか、面影があるってよく言われるようになったんです。それ、僕にとっては最高の誉め言葉なんです」

(文=石倉勤 写真=廣田真人)

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