奈良ソフトボールアカデミー代表/原田孝勇さん×伊勢谷スポーツ俱楽部【前編】
「楽しいからこそ上手くなる」
「奈良ソフトボールアカデミー」代表の原田孝勇さん。中学生女子選手に対して、スポーツの楽しさを感じてもらうことを最優先に、声掛けや練習方法の工夫を重ねながら、選手のモチベーションを保つことを大切に指導されている。そんな原田さんのベースにあったのが大好きな野球を味わい尽くした経験。「好き、楽しい」という気持ちの無限の可能性を追求している原田さんの、人並外れた球歴に迫る。
野球ができる喜び
―天理高軟式野球部に入部したのはなぜですか?
天理中野球部への入部がきっかけで野球を始めました。強豪で練習も厳しかったですが、最後の大会にはベンチ入りすることができました。
当時、天理中野球部員はセレクションを受けなくても天理高硬式野球部に入部できたので、甲子園に憧れて、天理高入学後すぐに入部しました。しかし、体力面、技術面でレベルの違いを感じて10 日ほどで辞めてしまったんです。厳しさからの開放感で一カ月ほどは何もせずに遊んでいましたが、中学時代の友人に「いい加減野球に戻ってこい」と怒られて、彼が所属していた軟式野球部に入部しました。
当時は部員も少なく、硬式を辞めて軟式に入部する選手が多かったので、温かく迎えてくれました。下級生のときは公式戦になかなか出場できませんでしたが、一度硬式で挫折したので、また野球ができる喜びが大きかったです。
―3年時には主将として全国大会に出場されましたね。
私たちは同級生が6人しかおらず、新チーム結成時に全国大会は無理と言われていました。そんな中で全国大会に行けたのは下級生たちのおかげでした。新チームが始まった秋頃は「俺たちが頑張って下級生を引っ張っていこう」と意気込み、下級生に厳しい練習をさせようとしましたが、思い通りにいかなかったんです。そこで、冬からは良い部分を認めて楽しく練習する方針にシフトチェンジしました。1年生は16人いたので、彼らの力を借りないと夏の大会は勝てません。なので、私達がサポートする意識を持って1年生がやりやすい練習や雰囲気作りを心がけました。すると私たちも厳しくする必要がなくなったので、気持ち的にも楽になり、チームの雰囲気が良くなったんです。下級生が頑張ってくれたおかげで夏の全国大会に出場できました。
―なぜ天理大学では硬式野球をされたんですか?
プロ野球を目指すとか、自分の可能性を確かめたいといった気持ちは一切なく、純粋に硬式野球をしたかったんです。当時は決して強豪ではなく、いい意味で緩い雰囲気があり、先輩方も可愛がってくださったので続けられました。ただ、大学生は身体が大きく、同級生の多くは硬式野球出身だったので「みんな上手いなぁ」って思いましたね。
好きだったら続けてもいい
―軟式野球出身という引け目はありましたか?
もちろんありました。軟式出身と言うと驚かれましたし、硬式ボールを木製バットで打つのは怖かったですが、硬式野球をプレーできていることが嬉しくて、練習も楽しかったです。
あと、先輩にも同級生にも決して上手くない選手が一定数いたんです。天理高校硬式野球部は上手い選手だけで野球をしていたので、硬式野球部には上手い選手しかいないと思っていました。ですが、大学で上手くない選手を目の当たりにして、好きだったら野球をして良いんだと思えたんです。
―大学時代は選手兼任で主務をされていますよね?
当時は「下級生が任される仕事」があり、私の仕事を評価してもらったのか、主務を頼まれたんです。でも、野球がしたかったので、選手兼任でさせてもらいました。
主務業を通して他大学や外部とのつながり、部長や監督と選手の橋渡し役をした経験がいまの立場に生きています。
例えば、夜遅くに社会人野球チームに練習試合の連絡をしてお叱りを受けたり、また、毎年恒例の春季キャンプの日程を変更したいと申し出て、キャンプに携わってくださる施設や関係者にご迷惑をかけたりしたことがありました。いま思うとお叱りを受けて当然のことを学生時代に経験できたのは良かったです。
―大学野球で一番学んだことはなんですか?
「好きなことを続けてもいい」という認識ができたことです。天理高軟式野球部でコーチをしていた頃、すごく良い投手がいたので、大学で続けるのか聞いたら、「僕なんかが大学で硬式はできないですよ」と言うんです。誰しも「俺なんかが…」と思いがちだし、好きなことを続けるイメージをしたことがないと思います。でも、本当に好きなら続けたらいいんですよね。
圧倒的な行動力が生んだ経験値
―卒業後はどうされたんですか?
同級生から卒業記念にプロテストを受けようと誘われて、9月に広島カープのセレクションを受験したんです。一次テストで不合格でしたが、一緒にキャッチボールをした選手がアメリカでプレーしていた人で、10月に大阪で開催されるアメリカの独立リーグのセレクションに誘ってくれたんです。
このセレクションが面白くて、全員ショートの守備位置でノックを受けるんです。3球は正面で捕球して、次の3球はバックハンドで捕球するルールですが、3球目以降も正面に打ってくるので普通に捕球してしまう。正面の打球をあえてバックハンドで捕球できるか、つまり技術をきちんと見ているんです。
また外野ノックは全員ライトの守備位置について、ランナー一塁でライト前ヒットの設定で、サードに送球するんです。遠投ではなく、その送球の技術を見てくれる。
ショートのノックで難しい打球をシングルハンドで捕球して送球したら「ナイスプレー」と褒めてもらい、自分の技術を見てもらえたことが嬉しくて、アメリカの野球に興味を持ちました。
1月に四国の独立リーグのセレクションも受けて最終テストで不合格でしたが、自分の実力がよく分かり、野球がしたい気持ちに一層火が付きました。
―野球熱が湧き立ったんですね!卒業後はどこでプレーされたんですか?
卒業後、2005年3月から1年間韓国の釜山に渡り、大学の語学堂で言語を学びながら野球に没頭しました。大学の野球サークルに入れてもらい、その後は社会人の野球サークルにも顔を出して、最終的に強豪の社会人サークルに入れたんです。そこに韓国の元プロ野球選手が数人いて彼らに野球を教わりながらプレーしていました。
1年後、沖縄にも独立リーグができると知って、帰国後に入団テストを受けたら合格できて沖縄の独立リーグに入団しました。ただ、球団経営がうまくいかず1ヶ月で潰れてしまい、当時23歳で肩を痛めていたこともあり、もう野球とは縁がないかなと思い、天理に帰ることにしました。
その後は天理コスモ(少年野球チーム)で指導をしながら、韓国の経験を生かしたいと思い、天理大学に科目等履修生として通って、韓国語の教員免許を習得しました。
その間も、硬式野球がしたくて半年間ソウルに行ったりしていました。
―すごく野球が好きなんですね!ソウルでの思い出はありますか?
釜山での留学時代、とても野球が上手い後輩が私に興味を持って声をかけてくれたんです。なぜかというと、韓国は背が低いとスポーツをさせてもらえないんです。韓国はプロ志向が強い国民性で、野球をしたくても、「あなたの体格ではプロになれませんよ。プロになれないなら野球ではなく勉強を頑張りなさい」、そういう文化です。私が小柄なのにそこそこ野球が上手かったので、「なんでそんなにうまいんですか?一緒に練習しましょう」と誘ってくれて、野球の知識を共有しながら、すごく仲良くなったんです。
ソウル滞在時には彼から連絡があり、アメリカの独立リーグのセレクションがあるので一緒に来て欲しいと誘われました。付き添い気分でしたが、アメリカのスカウトが「韓国のセレクションに日本人が来てる。小柄だけどいい動きしている」と面白がってくれて二次試験に誘ってくれたんです。最終的に不合格でしたが、人生でセレクションを5回も受験できて、最後はアメリカの試験を韓国で受ける経験もできて面白かったですね。
楽しいからこそ上手くなる
―原田さんは好きという気持ちを大切にされていますね。
大学4年時にある社会人チームの練習会に天理大学として呼んでもらったとき、ノックの時間に、上から投げられないベテランがショートを守っていたことがありました。また、広島カープのセレクションを受けたときには、ジーパン、トレーナー姿の素人が「ジーパンでも動けるので受けさせてください」とスタッフに懇願している場面を見ました。ホンマに野球が好きでチャレンジする人がいるんだなと感じたんです。
当時少年野球を教えていたので、ノックのときに控え選手にどこのポジションを守りたいか聞いたことがありました。少年野球では、下手な選手はセカンドやライトなどのあまり打球が飛んでこないポジションを守らされることが多いんです。「ホントはどこ守りたい?」と聞くと、ある選手がどもりながらサードを守りたいと言ったんです。「そうか、ならサード守りな」と伝えると驚いていましたが、好きなポジションでノック受けて良いよと背中を押しました。監督に伝えたら「え、あいつサード守りたかったの⁉⁉」って驚いていました。そうしたら彼は目の色を変えてノックを受けていたんです。
―その一言で野球人生が好転する選手がいるかもしれないですね。
天理コスモを4年間指導して、その後天理高校軟式野球部のコーチもしましたが、その中で特に意識したのがベンチ外の選手でした。その選手の適正ポジションを見定めたり、投げ方に迷っている投手には腕の角度やボールの握り方などを教えたりと、彼らがどうしたら試合に出られるかを考えながらアドバイスをしていました。私自身は好きなポジションや出られるポジションを常に考えていたし、試合に出られないなら好きなポジションで練習した方が楽しいという考え方をよくしていました。指導者としてそれを伝える中で上手くなった選手も多くいました。
それがいまのソフトボール指導にも生かされていますね。
―なぜソフトボールを指導されるようになったんですか。
軟式野球のコーチを3年しましたが、外部コーチだったので学校生活までは見られないんです。学校現場で関わればやりがいも増えるだろうと思い、体育の教員免許習得を目指して、32歳で体育学部に科目等履修生で通ったんです。
すると、天理大学ソフトボール部の部長先生が、なぜその歳で履修生として通っているのか質問してくださったので理由を話すと、ソフトボール部の指導をして欲しいと誘われたんです。最初は断ったのですが、一度グラウンドに来て欲しいと誘われたので行ってみたら、選手たちのあいさつがとても良くて、ウエルカム感がすごかったんです。当時、指導者は監督しかおらず土日しか来られなかったので、コーチが来ることを喜んでいたと思います。自分が来ても良いんだなと感じたのでソフトボール部のコーチを引き受けました。
伊勢谷のふりかえり
スポーツが大好きという理由だけで、数々のアスリートへの取材、記事作成をしているが、私は硬式野球の経験はないし、ラグビー部出身でもない、そして編集者でもない。そのことを引け目に感じていたが、原田さんの話を聞いて完全に吹っ切れた。
ラグビーが大好きだから目を輝かせながら話を聞かせてもらい、野球が大好きだから食い入るようにルポを書き上げる。文才はないし、まとめるのは本当に大変だけど私にとったら天職だから、話を聞きたいアスリートを頭の中に浮かべてワクワクしている。それだけで良いんだと思えた。
好きなことをとことん続けた原田さんの姿に、大きく背中を押してもらえた。
(文=伊勢谷和海 写真=永尾泰志)
原田孝勇さん HARADA TAKAO
1983 年、天理市生まれ。天理中学校から野球をはじめ、天理高校では軟式野球部に所属して主将として全国大会に出場。天理大学では選手兼主務として硬式野球部に所属。在学中、NPB 、独立リーグのセレクションを三回受験する。卒業後、韓国釜山に言語留学を経て、2 3歳でU リーグ(沖縄独立リーグ)の選手として活動。退団後、天理に戻り天理コスモ、天理高校軟式野球部の外部コーチを経て、3 2 歳で天理大学ソフトボール部外部コーチ。現在は韓国語講師の傍ら、奈良ソフトボールアカデミーの代表、ヘッドコーチをつとめている。
伊勢谷和海/ ISETANI KAZUMI
1984年愛知県生まれ。天理高校、天理大学卒業後、天理高校職員(北寮幹事)として勤務。好きなスポーツは野球・陸上・相撲・ラグビーなど多岐にわたる。スポーツが好き過ぎて、甲子園で校歌を数回聞くと覚えてしまい、30校以上の校歌が歌える。スポーツ選手の生年月日・出身校も一度見たら覚える。高校野球YouTubeチャンネル「イセサンTV」を開設。ちまたでは「スポーツWikipedia」と称される。
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