真野凜風(同志社大)天理高校軟式野球からドラフト候補へ│伊勢谷スポーツ俱楽部

「天理高校軟式野球部からプロ野球へ」

名門・同志社大学硬式野球部のエースで今秋ドラフト候補の真野(まの)凜風(りんか)選手は、天理高校時代に軟式野球部でプレーしていた。軟式出身選手が大学野球で活躍するだけで異例なのに、プロ野球に進めば一大快挙だ。

大学野球でどのような成長を遂げたのか、そして真野選手のベースにある天理高校軟式野球部の3年間に迫った。

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軟式野球でも夢が持てる!

―野球を始めたきっかけを教えてください。

小学1年生のときに3歳年上の兄の影響で野球を始めました。中学時代は部員が少なく、助っ人を借りて試合をしていました。特に目立った選手ではありませんでしたが、3年間で身長が30センチ伸びて引退時には180センチ以上ありました。引退後、久しぶりにボールを投げたらすごく良いボールを投げられたのを覚えています。

ー天理教ではないのに、なぜ天理高校に進学したんですか?

進路の選択肢は複数ありましたが、天理高校は野球が強いので気になっていました。硬式野球部に入るのは難しいと思いつつ、天理なら軟式でも夢が持てると思い、受験しました。

「軟式野球でも夢が持てる」いいワードですね!

中学3年時の夏休み、天理高校軟式野球部が初めて全国制覇をしたのを知りました。日本一を目指す形は硬式野球以外にもいろいろあるなと感じ、入部したいと思ったんです。

軟式野球部監督の木田先生の記事もよく目にしていました。就任1年目で日本一に導いたすごい監督なので、先生の下で野球がしたいと思いました。

―入学にあたり天理教に不安はなかったですか?

小さい頃からこどもおぢばがえりに参加していたので、楽しい記憶しかなかったんです。大人数で遠足気分で参加した思い出が残っていて、宗教に不安な気持ちはありませんでした。天理高校入学時も、そのときの教会にお世話になりました。

強いからこそ苦しんだ「隙」の存在

―高校では、真野選手は二類生(特別進学コース)でした。勉強と部活の両立は大変でしたか?

勉強は頑張って付いていくのがやっとの状態でしたし、授業の関係で一類生(進学コース)よりも練習時間が限られるので、大変でしたね。ただ二類の同級生部員に井筒一郎と島田拓也という、勉強もできて野球部でも主力の二人がいたんです。彼らの存在は救いでしたね。

―入学前年に全国二冠(夏の選手権大会・秋の国体)を達成した野球部。レベルは高かったですか?

まず、礼儀や行動がすごくしっかりしていて、こういうことを大切にされる監督なんだと驚きました。中学校と違いすぎて不安になりました(笑)。

選手個人の能力はそれほど高く感じなかったですが、チームになるとすごいんです。このメンバーで勝てるのかと思うんですが、試合になるとすごく強い。

木田先生が相手の戦術を見抜いて緻密に試合を組み立ててていくので、先生のサイン通りにプレーすれば勝てるんです。みんな先生のことを信頼していましたね。

―いつ頃から試合に出ていたんですか?

1年の秋です。同級生の別所真治郎がエースで、私は投手もしましたが、主に野手として「5番センター」で出場していました。当時はただただ必死でしたね。

―2年時は夏の全国大会に出場して、緊迫した場面で登板していますね。

初戦の仙台商業戦(3-1)は延長戦になり、ピンチの場面でのリリーフ登板でした。先輩たちの夏を終わらせてはいけないと、かなり緊張して投げたのを覚えています。ただ先発の別所が満塁でスリーボールという絶体絶命の場面で三振を奪うなど、なんとか耐えしのいでいたんです。2年生が多く出場していて、センターラインが同級生だったので有り難かったです。結果、全国大会でベスト4に進出しました。

―真野選手の代になったときの心境は覚えていますか?

全国大会準決勝の中京学院大中京戦(0-4)では、相手エースに圧倒されて実力不足が露呈してしまったので、これから頑張らなくてはと思いました。同級生に主力が多く、周囲の期待も感じていたので、明確に日本一を目標に掲げることができました。

―主力が多数いたので新チームは強かったでしょうね。

2年秋、3年春と近畿大会で優勝して、練習試合も負けた記憶がないです。どこにも負ける気がしなかったですね。ただ何か隙があるチームで嫌な予感はしていたんですが、それすらも実力でカバーできていたので。

―隙とは具体的になんですか?

私で言えば、投手として大量リードしているのに不要意な四球から点を与えてしまう、チームで言えば、安打は出るけど、得点に結びつかない、というようなことが多かったです。どこかで俺たちは強いという過信があったように思います。

迎えた夏の県大会決勝、奈良育英戦(3x-2)は危ない試合でしたね。

1-0でリードしていた9回表の守備、ピンチの場面で難しい投手ゴロを私が弾いてしまい、逆転されたんです。「こんなこと起きるのかよ!」って感じで、みんな泣きながら9回裏の攻撃に入りました。先頭打者の私が出塁して、結果逆転サヨナラ勝ちするんですが、負けていたら大変なことでした。チームとして隙を感じていたので、足元をすくわれるのではないかと怖かったんです。

土壇場で逆転するのはさすがですね。その後近畿大会決勝、南部戦(0-2)に敗れ全国大会を逃しました。

打線が全く打てず、流れを掴めない間にポテンヒットで相手に得点されて、何もできずに終わってしまいました。つらかったし、悔しかったです。

実力のあるメンバーが揃っていたので、「誰かが打ってくれるだろう」と、みんなが他人に頼ってしまっていました。「自分が何とかするんだ!」そんな気持ちでボールに食らい付いていたら、違う結果だったかもしれません。

おまえはプロに行けるぞ!

―天理高校軟式野球部の魅力はなんだと思いますか?

どこにも負けない質と量の練習だと思います。練習の質の高さは木田先生の存在が全てだと思います。何をしたら良いかを個々に明確に伝えてくださるので、それを実行するだけで質が高まります。例えば打撃フォームなら、正しいフォームの選手には明確に「それで良い」と伝えてくれて、指導が必要な選手には「膝を曲げた方が良い」など的確に伝えてくれるので、実行すればうまくなるんです。またやりたい練習をできる時間もあるので、そこでも質を高められたと思います。

OBの方が頻繁に練習に来てくださるのも魅力ですね。二冠達成時エースの大瀬祐治さんがバッティングピッチャーに来てくださるなど、とても有り難い環境だと思います。

―高校時代から130キロ中盤のボールを投げていたそうですが、大学で硬式野球をするつもりでしたか?

最初は同志社大学で準硬式野球(硬式球と軟式球の中間的ボールを使用する)をするつもりで、2年時から練習会に参加していました。ただ、引退して同志社大学進学が決まってから木田先生に毎日職員室に呼ばれて「同志社で硬式をやりなさい」と言われたんです。同志社大学の硬式野球部には甲子園球児も多数入部するし、軟式から硬式に変わる不安もあって全く自信がなかったです。それでも毎日言ってくださるのでセレクションを受けてみたら、合格したんです。

軟式の段階で真野選手の能力を見抜いていた木田先生がすごいですね!

引退したときに頂いた手紙に「おまえはプロに行けるぞ」と書かれていて、職員室でも「プロに行けるから硬式をやれよ」といつも言われていました。私は身長が高く、投げ方や体型といった投手としての能力全てが未完成だったので、そこに将来性を感じてもらっていたのかと思います。

今は先生を信頼して良かったと思っています。木田先生には天理に帰る度にごあいさつに行きますし、何かある度に電話でご報告しています。

未完成ゆえに大きかった「伸びしろ」

―同志社大学硬式野球部のレベルは高かったですか?

体は大きいし野球はうまいし、みんなすごいと感じました。一学年上に大阪桐蔭高校で甲子園春夏連覇を達成した青地斗舞さんがいて、もう圧倒されましたね。入部当初は一番下のチームからのスタートでした。

―大学でもやれる自信を掴んだのはいつですか?

2年生のとき公式戦(関西学生野球連盟春季リーグ戦)で投げさせてもらったときでしょうか。「みんなと一緒に野球ができているな」。そんな気持ちになれて、大学野球に慣れてきた感覚はありましたね。

―投手としての成長を感じた段階はありますか?

下級生のときは練習についていくだけで成長できましたし、今でも常に進化できていると感じるんです。ある瞬間に成長したと言うより、日々進化している感じです。

―未完成だったからこそ伸びしろがすごいですね。いつからプロ野球を意識しましたか?

2年生のときに、監督やコーチに「プロに行けるポテンシャルがあるぞ」と言われたんです。それからは個人練習や別メニューが多くなり、必要な練習をするようになりました。3年生からはメディアに取り上げてもらい「本当にプロに行きたい」と思うようになりました。

―3年生で大学日本代表候補合宿に参加しました。軟式野球出身のことは話題になりますか?

どこでも絶対に言われます(笑)。軟式野球出身者が大学硬式でプレーすることは少なく、そもそも同志社に軟式から入部したのも初めてでした。だから取材もよく来ます(笑)。

4年生になりエースナンバーを背負っていますね。

エースナンバーを付けるのは人生で初めてです。春のリーグ戦は調子がよく、エースとしての責任感を無理に持とうとして、自分らしくなかったように思います。4年生になり引っ張る立場になりましたが、「引っ張る」の意味もまだよく分かっていません。今は、とにかく自分が一番練習しようと思っています。

創部130年以上の歴史を持つ同志社大学硬式野球部。リーグ戦優勝26回、日本一13回、プロ野球選手を28人輩出している名門。

天理で学んだ「怪我したときこそ人のために」

―大学野球で、天理での学びが生きたことはありますか?

身の回りのことに気付けるようになりました。天理教の人はゴミを見つけると拾うし、友達も靴やトイレのスリッパをキレイに揃えていて、「よく気付くなぁ」と感心していました。木田先生も“気付き”に関しては大事にされていたし、おかげで私も自然と意識するようになりました。何より天理の街がキレイですよね。

野球に関しては、ごみを拾ったから良い結果になるとポジティブに捉えているので、純粋に良いことをしようと思っています。

あと、誰にでも感謝できるようになりました。大学野球ができるのは親のおかげですし、先日も怪我で立命館大学戦をスタンドで応援していたんですが、チアリーダーの応援や、先生方もたくさん球場に来てくれていて、「こんなに応援されているんだ」、「こんないい環境で野球できているんだ」と思うとすごく感動して、感謝しかなかったですね。怪我をしたからこそ大切なことを感じられました。

怪我を前向きに捉えられるのは、天理での学びのおかげです。木田先生には「怪我したときこそ周りのサポートをさせてもらいなさい」と言われていました。「人のために動けないと、人は動いてくれない」と思うし、だから怪我をして何もできないからこそ、人のサポートをさせてもらうのは大切だと思います。

―今後のビジョンはありますか?

社会人を含めて上のレベルで野球をすることは明確な目標なので、最終的にプロ野球選手になることが一番の目標です。

真野選手がプロになったら、野球人の夢がすごく広がりますよね!

軟式野球出身からプロ野球ですものね。

―最後に、現役の天理高校軟式野球部の方にメッセージをお願いします。

人生はどこで転機が訪れるか分からないです。ただ、その転機は今を頑張らないと訪れないと思うので、今を頑張ってください。

そして誰を信じるか。私は木田先生を信じて今があるので、信じる人を大事にしてください。

ありがとうございました!

(文=伊勢谷和海 写真=永尾泰志)

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