天理陸上の申し子/山本芳弘さん×伊勢谷スポーツ俱楽部【前編】

「努力こそ最大の能力」

筆者は天理高校時代、陸上部に所属する長距離選手だった。今回取材した山本芳弘さんは、天理中学から陸上の名門・添上高校に進み、長距離ランナーとして全国区で活躍、筆者にとって一学年上のスーパースターだった。

世界大会にも出場した華々しい現役時代に迫るとともに、トップランナーだからこそ感じ得た世界観に迫る。

全国屈指の高校生ランナーへ

―陸上を始めたきっかけを教えてください。

天理小学校2年生のとき、友達から誘われ陸上部に入りました。
3年生からは毎年校内マラソン大会で優勝できるようになり、5年生のときには奈良県大会に出場して、1500Mを5分5秒で走って優勝。少しずつ長距離選手としての自信がついてきました。

ところが中学に入学してすぐの頃、同級生には負けないだろうと思って出場した、1年生大会の1500Mで5位になってしまったんです。「上には上がいるんだな」。そう思うと途端にやる気がなくなってしまって(笑)。それからは目標もなく走る毎日でした。それでも3年生の夏には、県総体で3000Mを9分9秒で走って3位に入り、近畿大会に進出できました。

思い出の詰まった天理中学グラウンド、懐かしそうに当時の練習を話してくれた

―なぜ添上高校に進学したんですか?

強豪の智弁学園など複数の学校から声をかけてもらいましたが、家から一番近いという理由で添上高校を選びました。

添上は短距離や跳躍が強く、入学する数年前にはインターハイで男女共に総合優勝するほどでしたが、長距離は毎年智弁学園に惜敗していました。

中学時代は練習が嫌であまり走っていなかったこともあってか、高校では練習量が一気に増えたように感じました。朝練は短距離メンバーと一緒にして、放課後も全員で「動き作り」をします。その後は、短距離メンバーと共にグラウンドで練習をしたり、それ以外のときはロードを走ったりしていました。よく先生の目を盗んでサボっていましたね(笑)。

―高校時代は1年生から活躍されたんですか?

それが、入部してすぐに怪我してしまったんです。8月の学年別対抗(学年ごとで競う大会)では優勝しましたが、近畿大会では負けて入賞に終わりました。5000Mのタイムは15分14秒でした。(中学は3000M、高校は5000Mが最長種目)

ただ、9月にジュニアオリンピックに出場し、1500Mを4分6秒で12位に入りました。これが初めての全国大会でした。

―私が天理高校陸上部に入部したときには、「添上の山本芳弘」といえば2年生ながら有名人でしたよ。

私が1年生のとき、奈良学園高校の3年生に鐘ヶ江幸治さんという選手がいました。後に箱根駅伝でMVPを獲得するほどの選手で、当時、5000Mでインターハイに出場して入賞されたんです。「鐘ヶ江さんくらい力をつけたら全国でも勝負できるんだ」とイメージができました。

2年生の6月、インターハイ奈良県予選に5000Mで出場して、14分50秒で優勝。2週間後の近畿大会は14分31秒で6位に入り、インターハイに出場できました。

―3年生のときは全国的にも有名になっていましたよね。

でも、インターハイ奈良県予選は5000Mで智弁学園の高橋選手に負けて2位だったんです。私が14分55秒ほどで、高橋選手は14分38秒で大会記録。全く歯が立たなかったですね。

近畿大会では、5000M出場選手36人中、私の持ちタイムが15位くらいだったので、インターハイは厳しいと思っていました。ですが、なんとか14分35秒で5位に入りインターハイに出場できました。

インターハイ決勝ではラスト200Mまで2位でしたが、ラストスパートで抜かれてしまって。それでも7位で入賞することができました。

―秋の国体では5000Mで8位入賞、そのときの14分11秒というタイムは、当時の奈良県高校記録となりましたね。当時、「バケモノみたいなタイムだ」と驚いたことを覚えています!

国体前に出場した記録会で14分21秒、国体の予選も14分24秒だったので体感的には変わりませんでした。

それでも、14分11秒はその年の高校ランキングで日本人9位だったので、速い方でしたね。

トップレベル、そして世界へ

―高校卒業後、実業団のアラコ(のちに実業団名がトヨタ紡織に変更)に進まれたのはなぜですか?

最初は、一番に声をかけてくれた山梨学院大学に進学する予定でした。ただ、実業団は給料をいただけるしレベルも高いので、最終的には実業団で最初に声をかけてくれたアラコに進むことにしました。

―箱根駅伝への憧れはなかったんですか?

当時は箱根駅伝をちゃんとテレビで見たことがなかったので、山梨学院が強いのかどうかも分かってなかったんです。ただ翌年に山梨学院が往路優勝して驚きましたね。

―アラコではすぐに活躍されたのですか?

高校3年の秋に疲労骨折をして、アラコではすぐに練習ができませんでした。1年目は怪我であまり走れず、元旦のニューイヤー駅伝(全日本実業団駅伝)にも出場していません。

2年目でホクレンディスタンス(夏に北海道各地を転戦する大会)に出場して、5000Mを13分52秒で走りました。コニカミノルタの松宮隆行さん(5000M元日本記録保持者)と6秒差でゴールすることができ、その頃から走れるようになりました。

―20歳で13分52秒、すごいタイムですね!

大学に進学した同級生も含めて一番良いタイムだったと思います。10000Mも28分49秒で走ることができ、20歳で一気に成長しました。

やはり、実業団に入って練習量が増えたことが大きかったです。基本的に練習嫌いで、高校でもあまり練習をしていなかったので(笑)。

―どんな練習をしたら10000Mを28分台で走れるんですか⁉

先日、当時の練習日誌を読み返していたら、月間800kmは走っていました。走る距離が長く、スピード強化の練習もするなど、量と質が一気に上がりました。

―2年目は駅伝やハーフマラソンでも活躍されましたね。

ニューイヤー駅伝は最長区間の2区(22キロ)を走り、区間5位でした。3月に出場した全日本実業団ハーフマラソンは1時間2分3秒で6位でした。

4年目には札幌で開催された国際ハーフマラソンに出場して、夏の暑い中を1時間3分21秒で走れました。

―大会後にハーフマラソンの日本代表に選ばれましたね。

1位が藤田敦さん(マラソン元日本記録保持者)、3位が尾方剛(2005年世界陸上マラソン銅メダリスト)さんで、私は数秒差で4位でした。2位までが代表枠という中、藤田さんと尾形さんが出場を辞退され、繰り上げで選ばれました。運が良かったです。

2005年、世界ハーフマラソンカナダ大会では、気温0度という環境の中、寒すぎて3kmで脚が攣りそうになってしまい、そのままスピードを上げられず1時間4分台で24位でした。

ただ、各国5人の出場者中の上位3人の合計タイムで争う国別団体記録(団体戦)で3位に入ったので、私も銅メダルをもらいました。メダル授与式ではエルゲルージ(1500M世界記録保持者・3分26秒)からメダルをかけてもらいました。

―世界ハーフマラソンの銅メダリストなんですね!

本当に運が良かっただけです(笑)。

頑張れることはすごいこと

―現役はいつまで続けたんですか?

2014年、31歳のときにトヨタ紡織からNTNに移籍し、その2年後に33歳で引退しました。

―引退を決意した理由はなんですか?

実は、2011年に離婚をしたんです。それ以来二人の息子は、天理市にある実家の教会で面倒を見てもらい、私はチームのある豊田市で練習をし、1カ月のうち10日ほど実家で練習をするという生活になりました。NTNに移籍してからも忙しい日は続き、子ども達と過ごす時間がなくなっていたので、引退を決意しました。引退後は大阪の本社勤務だったので、実家から通えるようになりました。

―陸上生活に後悔はなかったですか?

もう少し真剣に陸上に向き合っていればなとは思いました。現役時代に最大酸素摂取量(1分間に体重1kgあたり取り込むことができる酸素の量)を測ったことがありました。数値は90(ml/kg/分)、これは日本に1人か2人しかいないと言われる数値だそうです。心肺機能はとても強かったのに、能力を発揮しきれなかったんです。やはり努力できるのも能力なんだと思いますね。

―「能力を発揮しきれていない」というのは、現役時代から感じていたのですか?

例えば、5000Mを走ってもいつもラスト一周(400M)が一番遅かったんです。22歳で出場した国体のハーフマラソンでは、終盤まで先頭でしたが最後に抜かれてしまいました。スパートが苦手と言うより、限界まで出し切れずに諦めてしまうんです。だから箱根駅伝で襷を繋いで倒れ込む場面を見ると、そこまで出し切れる、頑張れるのは能力だと感じます。ホントにすごいことです。

それなりに頑張っていたと思いますが、限界を超えて努力することができなかったですね。

―もう一度やり直したいと思いますか?

実際に戻っても頑張れないと思います。ストイックに練習に打ち込む、食べたいものを我慢する、しんどくても更に頑張る、それができないと更に上の世界には行けません。

日常生活でも一つの物事に頑張って取り組む、面倒くさいと思うことをサボらずに努力できるというのは本当にすごいことなんです。

伊勢谷のふりかえり

「ここまですごい選手だったのか」

取材を終えての率直な感想だった。驚異的なタイム、ビックネーム、そして世界でも勝負した実績。陸上経験者なら鳥肌ものだろう。

そんな山本さんが語る、「頑張れるのは能力です」との言葉には重みがあった。襷をつなぐ箱根ランナーに、さらにリスペクトが湧いてきた。

そして、日常の小さな積み重ねの大切さと、それが本当にすごいことなのだと教えてもらえたことがありがたかった。

「我慢して頑張るのは当然」、「コツコツ取り組むのは当たり前」、そんな考えを周りの人や自分に当てはめてしまい、自他を認められない心があったように思う。

相手の努力、自分の頑張りに敏感に気付き、優しい心を遣える、そんな人になっていきたい。

(文=伊勢谷和海 写真=廣田真人)

山本芳弘さん/YAMAMOTOYOSHIHIRO

1983年、天理市生まれ。天理小学校で陸上を始め、天理中学では近畿大会に出場。添上高

校ではインターハイ、国体で入賞、5000M奈良県高校記録を樹立した。実業団アラコではニューイヤー駅伝で活躍し、ハーフマラソンで国体2位、世界大会出場の実績を残す。引退した今も市民ランナーとして活躍中で、奈良マラソンは3連覇中。現在は中央発條陸上部コーチをつとめる。

伊勢谷和海/ ISETANI KAZUMI

1984年愛知県生まれ。天理高校、天理大学卒業後、天理高校職員(北寮幹事)として勤務。好きなスポーツは野球・陸上・相撲・ラグビーなど多岐にわたる。スポーツが好き過ぎて、甲子園で校歌を数回聞くと覚えてしまい、30校以上の校歌が歌える。スポーツ選手の生年月日・出身校も一度見たら覚える。高校野球YouTubeチャンネル「イセサンTV」を開設。ちまたでは「スポーツWikipedia」と称される。

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