〈第4回〉天理レスリングの申し子/小池邦徳さん×伊勢谷スポーツ俱楽部【前編】
「世界へとつながる、人々とのご縁」
日本中が熱狂に包まれた東京オリンピック、その大舞台にレスリングのレフリーとして出場した天理教校学園教員の小池邦徳さん。
世界で活躍されている方だけに、どんな武勇伝が飛び出すか楽しみにしていたが、小池さんの口から出てくるのは終始「人との出会いのおかげ」だった。今回は「ご縁」によって切り拓かれた世界への道に迫っていく。
全国大会に出たい!
―なぜレスリングを始めたんですか?
中学まではバスケをしていました。叔父に「親里高校にはレスリング部があるよ。岡田先生に指導してもらったら全国大会に出れるよ」と叔父に言われて、不思議とレスリングをしたいと思いましたね。
バスケ部は弱かったんですが、監督は上を目指している方で、先輩に全道選抜の主将がいました。きっと全国大会に憧れがあったんでしょうね。
―レスリング部に入部してどうでしたか?
初めは全然練習をさせてもらえなかったんです。身体ができていない状態で練習をしたら危ないので、とにかく階段を走っていました。
8階まである階段を走りながら、「俺は全く通用しないんだな」と思ったんですが、それが逆に面白かったんです。
当時の私は腕立て伏せもできず、ベンチプレスは20キロのバーすら上げることができませんでした。でも一年後にはかなり身体が大きくなり、そういうのが面白かったんですよね。
―レスリングをすると身体が大きくなるんですね。
何よりも岡田先生の指導、そしてレスリングの性質や、自分の意思が大きいですね。
食事も沢山食べましたが、食べさせられた感覚はなかったんです。試合の度に約10キロ減量をするんですが、減量後はとにかく食べることを求めるようになりました。
入学時に50キロだった体重が、卒業時には75キロになっていました。
一学年上の先輩が国体に出て、三位になったんです。その頃から親里高校として国体に選手を多数輩出するようになったんです。
―岡田先生の指導の凄さはなんですか?
当時は体罰同然の指導をしている高校も見聞きしましたが、親里高校は一切なかったです。
ただ、練習の追い込み方はすごいです。普通ベンチプレスは、重い負荷から段々と下げていくんですが、岡田先生は「総重量で10トン上げろ」と言うんです。
50キロを10回上げたら500キロ、それで10トンを上げるんです。岡田先生は明確な基準を示してから、トレーニングをさせてくれました。
あと「階段ダッシュ」は8階までのダッシュを20本するんですが、8階で岡田先生がエレベーターを開けて待っているんです。そして全員が岡田先生とエレベーターに乗って降りるんです。息が上がっており、閉塞感の中での緊張感は精神的に鍛えられましたね。(笑)
「レフリー」との出会い
―学生時代の実績はどうでしたか?
高校では全国選抜でベスト32が最高成績でしたね。岡田先生が輩出した教え子の中では大した成績ではなかったんです。
進学した天理大学では新人戦三位、四年時の西日本大会三位が最高成績でした。あらき寮の幹事をしながら国体にも出場をしましたが16位が最高でした。私は競技人としては決して優秀な選手ではありませんでした。
ただ、岡田先生は「レスリングの世界はレフリーの権限がとても大きい」と考えていたので、私に「小池、世界に行ってこい。世界の審判長になれ」そう言われたんです。壮大過ぎて、何を言っているんだと思いましたね。(笑)
それで幹事時代に選手を続けながら、レフリーの資格を習得しました。
―それでレフリーを志したんですね。レフリーにも階級があるんですか?
国内審判員はC級、B級、A級があり、A級レフリーは全国大会を吹けるんです。私は幹事中に二年かけてA級を習得しました。
さらに国際審判員は世界の大会を吹けるレフリーですが、国内で認められて推薦を受けると受験できるんです。国際審判員は3級、2級、1級、1S級があり、1S級の中からオリンピックのレフリーが選ばれます。
1S級レフリーは世界に約100人いて、さらにオリンピックでレフリーができるのは半数くらいです。
―レフリーを始めてどうでしたか?
26歳でA級レフリーを習得したんですが、日本の審判長から国際審判員受験の推薦をしてもらったんです。きっと岡田先生の後押しがあったと思います。そして2007年、27歳の時に国際レフリーに受かることができたんです。
世界が認めたパフォーマンス
―すぐ国際レフリーになられたんですね!世界の大会にも行かれたんですか?
2010年にシンガポールでユース五輪が開催され、レフリーも30歳以下での選出でした。選手同様、レフリーにも予選があるんです。
当時日本に30歳以下の国際レフリーは私しかおらず、まずアジア予選に行かせてもらい、アジアから私も含め6人が選ばれて、ユース五輪に行かせてもらったんです。そこでレフリーとしての評価を得ることができました。
当時の私は国際レフリー3級でしたが、なんとユース五輪後に三階級飛び級で1S級になったんです。
―すごい!なぜですか?
世界レフリー協会が、私以外にも6人ほどを三階級飛び級で1S級に上げたんです。理由は分からないんですが、有得ないことでした。
―ユース五輪のパフォーマンスがそれだけ素晴らしかったんですね。
私は日本で教えてもらったことを普通に行いました。そこを認めて頂けたんだと思います。
他競技の審判にもゲームメイクがありますけど、レスリングは強い者が勝たないといけないんです。五分五分の試合は沢山あるんですが、強い者が勝つように導くのがレフリーなんです。実力が10:0の試合は誰でも分かりますが、6:4の場面をきちんと評価できるかが大切です。
―1S級になったので、オリンピックでもレフリーをされたんですか?
2011年に国際レフリー1S級になって、翌年がロンドン五輪でした。当時日本には国際レフリー1S級は私以外に、50代のベテランの方が二人いたんです。
ユース五輪で私を見ていた世界からは評価を受けましたが、日本の中では「実績のない若造」にすぎません。
オリンピックもレフリーの予選があり、日本協会の判断で、今まで頑張ってこられたベテランの方が行くことになりました。予選に行かない=世界からノミネートされないので、ロンドン五輪には行けませんでした。
―モチベーションは下がらなかったんですか?
全く下がらなかったですね、もともとオリンピックなんて大舞台を意識すらしていなかったですから。
ただ、一緒にユース五輪に行ったオランダ、チェコ、ロシアの若いレフリーがロンドン五輪に行っていたんです。一方で私のような理由でハンガリー、韓国のレフリーは行けなかった。
ロンドンで彼らがレフリーをしていたのは大きなモチベーションになりました。同世代が頑張っている姿を見て、俺も日本で頑張ろうと思いましたね。
オリンピックに轟いた「天理教校学園」
―ロンドン五輪後はどうでしたか?
40代のオリンピックレフリーの方がいたんです。日本協会の上層部とも関係性があった方で、一緒に国際レフリーを取りに行ったこともあり、私のことを評価してくれていました。
日本の審判長が、その方に「今度の大会のレフリーは誰に行ってもらおうか」と相談をすると、いつも私のことを推薦してくれていたんです。それ以降は毎回様々な大会に一緒に行かせてもらうようになりました。
2013年からアジア選手権に行かせてもらい、そこでいいパフォーマンスをすることができました。おかげで2015年、リオ五輪の最終予選に呼んでもらえて、レフリーをさせてもらったんです。更にその方が世界の審判長に合わせて下さったんです。そして世界の審判長が私のことを認めてくれたんです。
―なんかすごい展開ですね!どの部分を認めてくれたんですか?
レフリーで一番大切なのはフェアであること、そこを認めてくれました。
そして若さも大きかったです。35歳だったので、特別若くはなかったんですが、日本人の顔は若く見えるみたいで良かったです。笑
―リオ五輪はどうだったんですか?
実力不足のため、行けませんでした。ただ、面白かったのが、NHKのアナウンサーが私にルールを教えて欲しいと天理まで来てくれたんです。
その方はリオ五輪でNHKの実況をする方で、事細かく教えさせてもらいました。五輪中も「私の実況どうでしたか?」って電話がきて、いろいろお伝えしました。
余談ですが、私が東京五輪でレフリーをした試合で、その方が実況をしてくれたんです。その方は大相撲の実況もされている方で、とにかく勉強熱心だったので、私も力になれたらと精一杯させてもらったんです。
そしたら東京五輪の実況で私のことを「天理教校学園の小池先生」って全国ネットで言ってくれたんです。これは感動しましたね。
―人との出会いがすごいですよね!
私は世界に評価されて、飛び級で国際レフリーになったし、世界でもあまり前例のないケースでした。
ただ、嬉しいとか認めてもらった感覚はなく、私を追い詰めないで欲しいというのが正直な気持ちでした。それだけ私は日本ではまだ認められていないレフリーでした。私に実力があったのではなく、引き上げて下さる方に出会えたご縁が大きかったんです。
―リオ五輪から5年後の東京五輪まではどのようなことがありましたか?
2017年に初めて世界選手権に行かせてもらえたんです。世界選手権はオリンピックレフリーじゃないと吹けないんです。世界選手権は楽しかったですね。私より若いレフリーもいて刺激になりました。
実は一緒にユース五輪に行った仲間がリオ五輪の決勝でレフリーをして、完璧に吹いたんです。それで私もオリンピックでレフリーをするイメージが付いたし、私もオリンピックの決勝で吹かないといけないと思ったんです。もう義務ですよね、吉田沙保里選手が負けた試合のレフリーも同年代だったし、「俺が吹かないといけないやん」そう思ったんです。
2018年にハンガリーのブタペストで世界選手権が行われ、最終日の最終試合でレフリーをさせてもらったんです。大相撲なら千秋楽の結びの一番、とにかく一番盛り上がる試合でした。信頼して任されたので、やりがいはありました。
その試合ロシアとハンガリーの選手が対戦して、ホームのハンガリーはすごく盛り上がったんですがハンガリーの選手が負けたんです。あの雰囲気の中で、平等に吹くことができたので、すごく褒められたし、あの試合を経験できたことは自信になりましたね。
2019年、カザフスタンの世界選手権に選ばれた時点で東京五輪に向けて手応えがあったんです。そして東京五輪を決めることができました。
―オリンピックの舞台はどうでしたか?
レスリングの初日の最初の試合のレフリーにあたったんです。
世界選手権はすごく緊張したんですが、東京五輪は全く緊張しなかったんです。レスリングはオリンピックの方が権威があるんですが、世界選手権の方が緊張した。それに共感してくれたのが前述の世界の審判員長でした。
「世界選手権は緊張しただろう、オリンピックは楽しかっただろう」って。
東京五輪は本当に楽しかったです。選手が全てを込めて戦っている、そこには政治力や忖度は一切なくすごくフラットなんです。本当に強い選手を勝たせないといけない場なんです。それがレフリーだと思うし、初日で何か視界がパーンと拓けました。
世界最高峰のパフォーマンスをしている選手が目の前にいて、それをコントロールしないといけない。きちんと評価しないといけないんです。選手の技に対して、それまでこの技を磨くために一生懸命取り組んできたことも評価しないといけない。それを評価するだけの力を私自身が持っているんだと、東京五輪で思えたんです。
例えるならリオで四連覇を目指した吉田沙保里選手がこの技で金か銀か決まる場面で、レフリーはビシッと判定を下す資格があるんです。その資格は、レフリーとしての経験と責任と覚悟ですよね。
レフリーは「切る」判断をするんです。有利に攻めている選手は自分の流れで試合ができている、それをどこで切るのか、この判断が難しいんです。でも楽しいんです。切っても続けてもいい場面、いわゆるグレーな場面をどこで切るかなんです。だから経験に基づいた責任と覚悟が必要なんです。
―レフリーが作品を作っている感覚ですね。
そうなんです。選手がいて観客がいて、いかにレスリングを面白く見せることができるか、それこそがレフリーの役割だと思っています。
伊勢谷の振り返り
「これは感動しましたよ!!」
対談中、小池さんが満面の笑みで話してくれたシーンがあった。
オリンピックに出場した時でも、国際レフリーになった時でもない。
それは、リオ五輪で小池さんがレスリングのルールを教えたNHKのアナウンサーさんが、東京五輪の実況で「天理教校学園の小池先生です」と紹介してくれた時のこと。当時を声高に語る小池さんの姿が印象的だった。
どんな有名高校でもオリンピックで校名が流れることは稀なのに、閉校が決まっていた天理教校学園の名が轟いたエピソードに胸が熱くなった。
そして「小池レフリー」ではなく、親しみのこもった呼び方をされているのがとても嬉しかった。親身に寄り添い、心を配っていたであろう姿が容易に想像できて、アナウンサーさんに「良い薫り」として伝わっていたんだと思う。
そんな小池さんだからこそ、人から人へのご縁が集まり、世界までつながっていったのかなと思えてならない。
(文=伊勢谷和海 写真=南笑平)
小池邦徳さん/KOIKE KUNINORI
1980年北海道生まれ、親里高校でレスリングをはじめ、天理大学時代は西日本大会三位になるなど活躍。あらき寮幹事時代に選手として国体に出場しながら、レフリーの資格を習得。2007年国際レフリーに合格、その後2011年に国際レフリー1S級を習得。レフリーとしてユース五輪、世界選手権など数々の大舞台を経験して、2021年東京五輪のレフリーをつとめた。現在、世界約40か国を飛びまわる国際レフリーとして活躍中。天理大学レスリング監督、天理教校学園教員。
伊勢谷和海/ ISETANI KAZUMI
1984年愛知県生まれ。天理高校、天理大学卒業後、天理高校職員(北寮幹事)として勤務。好きなスポーツは野球・陸上・相撲・ラグビーなど多岐にわたる。スポーツが好き過ぎて、甲子園で校歌を数回聞くと覚えてしまい、30校以上の校歌が歌える。スポーツ選手の生年月日・出身校も一度見たら覚える。高校野球YouTubeチャンネル「イセサンTV」を開設。ちまたでは「スポーツWikipedia」と称される。
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