天理教校学園が生んだタックラー/梶間歩さん×伊勢谷スポーツ倶楽部「生き続ける教校ラグビー部のアツイ心」
大舞台でも神様にもたれきったラガーマン――。
2012 年、ラグビー大学選手権セカンドステージ初戦、天理大 VS 早稲田大。選手入場後、多くの選手がグラウンド内で身体を動かす中、背番号「7」の選手が正座をして参拝をしていた。現地観戦していた筆者は、衝撃的なシーンに興奮して選手名鑑を開くと「梶間歩、2年生、天理教校学園出身」と書かれていた。劣勢にもかかわらず誰よりも走り切り、果敢に激しいタックルに入る教校学園(以下・教校)が生んだラガーマン。そのプレーに、筆者は完全に心を奪われた。
あれから 13 年。未だに色あせない興奮を梶間さんにぶつけてきた。

肩砕けてもタックル!
―ラグビーを始めたのはなぜですか?
兄が親里高校でラグビーをしていました。やんちゃな兄がけがをしても痛いと言わずに黙々と頑張っている姿が、とてもかっこよかったんです。中学校までバスケットをしていましたが、ラグビーがしたくて教校に進学しました。
入部当初、1 年生同士の試合で、キックオフのボールを捕った選手に強烈なタックルに入り、相手を仰向けに倒した同級生がいたんです。「こんな奴がいるのか!」と驚き、それ以来彼に負けたくない一心で、ひたすらタックル練習を繰り返しました。タックルが相手に突き刺さる感覚が本当に気持ちよくて、1年生のときからタックルが大好きになりました。
―レギュラーになったのはいつですか?
1年生の冬からです。タックルを評価してもらい当時は WTB(ウィング)で出場していました。1学年上の代が歴代屈指の世代で、全国高校ラグビー選手権大会(花園)奈良県予選の準決勝・天理高校Ⅰ部戦では、敗れたものの 12-27 のスコアでした。真剣に勝ちを狙った試合だったので、本当に悔しかったですが、貴重な経験となりました。3年時は準決勝で御所実業に敗れました。やはり二強の壁は厚かったです。
―教校ラグビー部と言えば、とにかく低い、くるぶしに突き刺さるタックルですよね。
教校ラグビー部には「肩砕けてもタックル」というスローガンがありました。とにかくタックルなんです。監督の紙谷先生(現・日本航空石川高校ラグビー部監督)は基本を大切にされるので、下半身を下げてタックルに入る練習を日々反復しました。そして、タックルは技術と同じくらい気持ちが重要です。気持ちで負けたらタックルに入れません。自分より大きい相手に対しても、「肩が砕けてもタックルに入るんだ」という強い気持ちがあったからこそ、ロータックルが突き刺さったと思います。
―教校ラグビー部での思い出は何ですか?
2 年時に夏の菅平合宿で「俺は A チームの苦しい練習を頑張っているのに、なんで同級生はB チームの練習でしんどいって言うとんねん」と、愚痴をこぼしたことがありました。すると翌日の練習中、腰に激痛が走り、ヘルニアと診断されました。身体が曲がらず、痛みと戦う日々でした。二学期が始まると、寮で幹事さんがおさづけ取り次いでくれて、深谷忠政先生の『身上さとし』の本を貸してくれました。読んでみると「腰は上半身と下半身の蝶番です。腰を入れるという言葉もあるように、腰は活動の中心になります。(中略)“私は精一杯こんなにガンバッているのに、なぜ他の人達はノンビリしてついて来ないのか”など不足に思うとよく腰のお手入れを頂くことがあります」と書いてあったんです。「神様はこんなストレートに伝えてくださるのか!」と、驚きました。それ以来、自分のこうまんのほこりを自覚して、神殿に足を運ぶようになりました。

「仲間のために」身体を使わせてもらう
―鮮やかすぎますね!天理大学では、入部時の4年生は立川理道選手の代でしたね。
レベルが違いすぎました。当時は A チームから F チームまであり、入部時はケガの影響もあり F チームにすら入れませんでした。練習中にミスを連発して先輩方の足を引っ張る毎日で、BK(バックス)としてはとても使えないレベルでした。FW(フォワード)なら可能性があるのではないかと考えて、1年生の冬にコーチに FW 転向の相談をしたら、「逃げの気持ちで転向するならいらんで」と言われたんです。私なりに熟考しての決断だったので、めちゃくちゃ腹が立って「見とけよ!絶対に A チームに上がってやる!」と決意しました。
それから 3 ヶ月後に A チームに上がることができました。
―すごいサクセスストーリーですね!
転向当初は、スクラムの組み方、走り出すタイミングすら分からず、周りからの微妙な空気を感じていましたが、「絶対に全員抜かしてやる!」と、必死に練習していました。
そんなときに、大叔母さん(祖母の妹)に初めて会う機会がありました。私の顔を見て「あんたラグビー頑張っているんやろ。試合前に必ず参拝して、神様に自分の力を最大限出させてもらうことをお願いしなさい。自分の力以上のものは出せないからね」と言われたんです。
なぜか涙が出てきて、その言葉が心に治まりました。それから試合開始直前にグラウンドで参拝するようになりました。すると、1 試合ごとに上のチームに昇格することができました。
「本当に神様が全力を出させてくださっている」と感じました。
―力以上のものが出ている感じだったんですか?
参拝時、決まってお願いする文言があるんです。「少しの力、少しの体力、少しの走力、少しのスピード、少しの勇気をお貸しいただいて、このチームのために最後まで自分の身体を使わせていただきますようお願いします」。試合中、疲れ果てた選手がいたら、自分が代わりに走ろう、代わりにタックル入ろうと決めていると、実践することができました。ポテンシャルは他の選手の方が絶対に高いですが、神様が背中押してくださっていると信じると、頑張ることができました。
同時に教校ラグビー部で徹底的に学んだ基本プレーとタックルが生きました。関西大学ラグビーA リーグの試合前日に紙谷先生に「明日 A チームに出させていただきます。先生から学んだ基本プレーのおかけです」とメールをさせてもらいました。
―素晴らしい話ですね。そして梶間さんの反骨心もすごいですよね?
教校ラグビー部で紙谷先生に心のスイッチを入れてもらったおかげです。周りに何を言われても「絶対に追い抜いてやる!」というハングリー精神を刻んでもらいました。
そして天理大ラグビー部の小松監督、コーチ陣もすごいです。私みたいな無名選手でもきちんと見て、評価してくださる。しっかり見てもらえている実感があるから、腐らずに頑張れました。下手でも毎日 120%でやる選手と、上手くても毎日 80%でやる選手なら、120%の選手を評価してくれる首脳陣でした。


天理大ラグビー部名物の坂道ダッシュ。筆者は一本で音を上げた…
―私が初めて梶間さんのプレーを観戦したのが大学選手権の早稲田大戦(14-46)でした。
早稲田大は有名な選手が多かったですが、タックルも通用して、前半 20 分までは手応えがありました。ただ早稲田大は要の選手が強く、先輩方のアタックも通用しなかったので実力の差を感じました。みんな緊張していて、ハンドリングミスが多く、集中しきれていなかったです。
―だからこそ後半10分の梶間さんのトライ、そしてまだ諦めないプレーが印象的でした。
私は実力がないので走ることしかできません。みんなが走れなくなるラスト20分で、みんなの分も走ろうと思ってプレーしていました。
天理教校学園の魅力
―卒業後は、トップリーグでプレーすると思っていました。
そんなレベルの選手ではないです。4年時はけがが多く、自分の心の弱さも痛感しました。進路に悩んでいるときに教校学園の「あらき寮」の幹事を勧めてもらい、3年間つとめさせてもらいました。
―寮幹事をしながら、ラグビー部でも指導されていましたね。
紙谷先生の指導は昔と変わらずとにかく基本プレーの反復でした。基本が身に付いているからこそ、無意識に次のプレーに移れます。例えば、「タックルに入ったら、すぐに立ち上がってリアクションする」という基本が身体に染み付いていれば、タックル入った次の瞬間に立ち上がることができます。身体に刻み込まれるくらい反復するので、初心者軍団であっても良い選手が育つ。天理高Ⅰ部、御所実業も年々強くなっていたので、差は縮まらなかったですが、良い選手はたくさんいました。最近も教校ラグビー部 OB の松田信夫選手(大阪府警)がセブンス日本代表の合宿に召集されました。
―教校ラグビー部での学びが生きていることはありますか?
多くの OB が「大人になって頑張れているのは教校ラグビーを頑張れたおかげです」と話してくれます。それこそ紙谷先生のおかげです。先生はラグビー、生活、信仰をとにかく大事にされていて、常々、「気付く力を高めなさい」とおっしゃっていました。「気付いて自ら動きなさい。指示待ちにならないように。だからこそあいさつは自分からさせてもらいなさい」と伝えてくださいました。
また、神様と向き合う時間を大切にされていて、この大切さは自分自身指導者になってから感じることが増えました。例えば、選手がけがをしたり高熱を出したりすると、私たちが神様からのメッセージを思案することが多かったです。そういうときに限って我々が気を抜いていたり、欲が出ていたりと思い当たることがあるんです。結局自分たちだったなと、神様への向き合い方を見つめ直す機会でしたね。
―選手に起きることを我が事として捉える、大切なことですね。
教校学園の雰囲気のおかげだと思います。幹事を終えた後も職員として閉校までつとめましたが、先生方の生徒への愛がすごかったです。悩んでいる生徒がいると寮まで行って話を聞いたり、寮や家庭での様子を頻繁に確認したりして、連携を取ったうえで生徒に接していました。尊敬できる「スペシャルな先生方」が多かったです。
今思うと、「おたすけの最前線」って感じでした。寮と学校と部活でひのきしん、おつとめを大切にし、「なんとかこの生徒のために!」と 3 年間寄り添う教校学園だからこそ、卒業まで見守れた生徒もいたと思います。
教校ラグビー部はなくなってしまいましたが、ラグビーを通して信仰の土台を心に刻んで、今でもお道を頑張って通ってくれている OB が多いことが本当にうれしいです。

伊勢谷のふりかえり
「教校ラグビー部がなくなってしまうのか!」
教校学園閉校の話を聞いたときの率直な思いだった。それくらい教校ラグビー部の気持ちの込もったプレーに魅了されていた。
今回、閉校した教校ラグビー部を扱う以上は「淋しさ」が伴うと思っていたが、それは違った。むしろ紙谷先生の教え子たちがこれから社会でお道でどんな輝きを放ってくれるのか、そんな「期待」が梶間さんの言葉に込められていた。
低い姿勢でタックルを繰り返す。倒れたらすぐに起き上がる。苦しいときに仲間の分も走り切る。梶間さんの話には人生に通ずるものがたくさん詰まっていた。
これからきっと、怯むことも、悩むこともあるだろう。そのときに「肩砕けてもタックル」そんな強い気持ちでアツく生きていきたい。
(文=伊勢谷和海 写真=永尾泰志)

梶間歩さん/KAJIMA AYUMU
1992 年、和歌山県生まれ。天理教校学園でラグビーを始め、3 年時は主将をつとめる。天理大学ラグビー部では、2 年時にレギュラーとして大学選手権出場。卒業後、天理教校学園「あらき寮」で幹事、ラグビー部コーチをつとめる。閉校(2023 年 3 月)後、自教会青年としてお道の御用に励んでいる。
伊勢谷和海/ ISETANI KAZUMI
1984年愛知県生まれ。天理高校、天理大学卒業後、天理高校職員(北寮幹事)として勤務。好きなスポーツは野球・陸上・相撲・ラグビーなど多岐にわたる。スポーツが好き過ぎて、甲子園で校歌を数回聞くと覚えてしまい、30校以上の校歌が歌える。スポーツ選手の生年月日・出身校も一度見たら覚える。高校野球YouTubeチャンネル「イセサンTV」を開設。ちまたでは「スポーツWikipedia」と称される。

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