〈第3回〉天理ラグビーの申し子/竹内健人さん×伊勢谷スポーツ俱楽部【前編】
「素晴らしい先輩、最高の同期と共に」
天理高校で一年生から花園で活躍した竹内さん。立川理道世代とプレイした二年時は花園ベスト8に進出、三年時は県予選で御所工業に敗退。三年間主力としてプレイし、多くの経験をしてきた竹内さんだからこそ見てきた天理ラグビーに迫る。
「素晴らしい先輩、最高の同期と共に」
一年生で痛感した全国レベルのすごさ
―なぜ天理高校に進学したんですか?
中学時代に大阪代表に選ばれて、啓光学園か大阪工大高に行きたかったですが、天理高校の武田監督や松隈先生がよく中学校に来られていたんです。両親が寮生活をさせたいという思いがあったので、いつの間にか願書を書かれていました(笑)。
当時の天理は宮本啓希さんや八役大治さんがおられて「格好いいな」と思っていました。高島さんも含めて、腕にリストバンドしていて、めちゃくちゃ格好良かったんですよね。
―入学して寮生活はどうでしたか?
中学校時代はお山の大将だったので、初めて身の回りのことを自分でするようになってしんどかったですね。
部屋が縦割りで、三年生が森田一摩さん、二年生が立川理道さん(以下:ハルさん)でした。先輩方と一緒に過ごして、最初の二週間は三カ月くらいに感じましたね。各部屋のルールは三年生が決めるんですが、森田さんは仲良くなることを目的にされていたので、三人で川の字で寝ていました。森田さんもハルさんも良い先輩でしたね。
―一年生の時から試合に出場していたんですか?
あの白いジャージを着て、初めて試合に出場することを「白ジャーデビュー」と言うんですけど、私と山本亨が6月の洛北高校との定期戦で出させてもらいました。ポジションはNo.8でした。
―天理高校でもやっていけると感じましたか?
18歳の選手と15歳の私では、コンタクト力(タックルなどの接触プレー)が全然違いましたね。練習でコンタクトするんですが、全員が強かったですね。スピードも違いました。
洛北戦以降も使ってもらいましたが、今思えば、私が出て良かったのかなって思いもありますね。
―高校一年生で花園デビュー。強豪・東福岡(10-62)と対戦しましたよね。
主将のナオさん(立川直道)が怪我をされて私がスタメンで出場したんです。当然勝ちにいった試合ですが、やってみたら2レベルくらい違いましたね(笑)。当時は東海大仰星と東福岡が高校ラグビー界のトップでした。
東福岡の№8が有田隆平さん(元日本代表、現・神戸)で対面でした。ラインアウトのオーバーボールを私が取ったんですけど、有田さんは私をヒョイと持ち上げてポイっと倒したんですよ。なにこれって思いましたね(笑)。全国レベルの凄さを感じましたね。
理道世代の強さベースだった仲の良さ
―東福岡に敗れて、立川理道さんの代になりました。当時のチームはどうでしたか?
強かったですね!まとまりがありました。
東福岡戦後、勾田寮の講堂にOB会長の方が来られて、叱咤激励をしてもらったんです。それ以降練習がかなりきつくなったんです、えげつないくらい(笑)。
ランパス(ダッシュをしながらパスをつなぐ)の日、走り込みの日、コンタクトの日、これをローテーションで回すんです。新チーム発足から3月の近畿大会まではそれしかしてないと思いますよ。ハルさんは群を抜いて上手かったんですが、井上大介さん(以下:大介さん),田村玲一さん(以下:たむさん)、藤原丈宏さんなどがおられて能力が高いうえに、練習で下地が作られていた感じですね。
―チームのまとまりもすごかったんですね。
本当に仲が良かったんです。二学年上のナオさんの代も仲がよくてまとまっていました。天理中学出身の方が多くて仲が良くて、そこに大阪出身の方が入って、うまくミックスされた印象がありますね。
チームの雰囲気もあり、ハルさんの代で日本一になると思っていました。春に東福岡と対戦して19-31で負けたんですけど、かなり手応えがあったんです。
ハルさんのすごさが分かるエピソードがあるんです。ハルさんの代の花園三回戦の国学院久我山戦(25-0)、私が数回抜ける(ボールを持って敵のディフェンスラインを突破する)んですけど、ハルさんからパスをもらうと、勝手に抜けているんです。
ハルさんが攻撃を仕掛けると、相手がハルさんのことを警戒して寄ってくるので、私達は決められたコースに走る。すると、ハルさんが空いた選手にボールを投げるので絶対に抜けるんです。
ハルさんは最初SO(スタンドオフ)だったんですけど、大介さんがSOでハルさんがCTB(センター)になりました。チームとしてCTBで攻撃を仕掛けるラグビーをしたかったんだと思います。それくらいハルさんは何でもできたので。
―他の先輩方との思い出はありますか?
大介さんとは誕生日が一緒で仲良くしていただきました。大介さんがSHで私が№8だったので、8-9のプレイが結構ありました。「健人どうしたいねん」と聞いてくれて「こういうふうにしたいです」と答えると「分かった」って言って、そのプレイでポンと抜けたりしたんです。
たむさんは高校時代LO(ロック)で、当時からタックルがすごかったんです。クロスプレイというのがあるんですけど、対面がマークするんじゃなくて、内側に選手がタックルに入るんです。すごいタックルをするので、相手選手が仰向けに倒れるんです。たむさんが内にいる安心感はホントに凄かったです。足も速かったので仕事人でしたね、タックルとオーバー(タックル後のボールの位置を超えるまでの押し合い)、ブレイクダウン(モールやラックなどの接点の総称。攻撃が止まり動かなくなった状況)に入るのがメインでしたね。
―花園は準々決勝で長崎北陽台(10-14)に敗れましたね。
長崎北陽台戦は勝てたと思いますし、負けたのは私のせいでもあるんです。最後逆転トライされたんですけど、自陣5メーターくらいで私がタックルミスしたんですよね。
ハルさんが後半途中に怪我で交代されたのも大きかったと思います。それくらい天理の支柱でしたね。
同期と共に歩んだ新チーム
―ハルさんの代が抜けて、新チームになった時はどうでしたか?
「次は俺らがやらなあかんな」「おんぶにだっこじゃあかんよな」って背負うものが増えた感じですね。
私は先輩方と楽しくやらせてもらっていたんですけど、先輩方がそういう雰囲気にしてくださったと思うんです。私も必要以上に「先輩」ということを感じずにやらせてもらっていました。
―新チームの船出はどうでしたか?
三年生の時が天理高校創立百周年だったんです。それもあってか、私達の代は大阪から多くの選手が天理高校に来ていたので、大阪の各学校に「今年の天理高校はめちゃくちゃ強いぞ」と思われていたんです。
私達が中学三年生の時、近畿大会は啓光学園中学が優勝して、そのメンバーが啓光学園に進んだので、啓光が強いと言われていました。ただその啓光を倒せるくらいの能力が天理にはあると思っていました。
そして3月の近畿大会で対戦して7-8で負けたんです。今になって思うと、その試合が全てでしたね。
―その試合が全てというのはどういうことですか?
天理高校の下馬評が一番高かったので、その天理に勝った啓光学園は自信が付きますよね。結果的に啓光学園は春の選抜も優勝、冬の花園も優勝しています。もしその試合で啓光学園に勝っていたら天理が優勝できたのではと当時は思っていました。
―竹内さんの代は御所工業も強かったですね。
中学の近畿大会で準優勝したのが河合中学で、そのメンバーの多くが御所工業に進みました。
当時の御所は「強い」というより「上手い」チームでした。私の思う「強い」は試合に勝つこともそうですが、コンタクト力が強いイメージです。「上手い」は、ラグビーを理解していて、スキルでかわしていくイメージです。当時の御所はFWがキックを蹴ってもよくて、自由で、みんながラグビーを楽しくやっている感じでしたね。グラウンドを名一杯使ってラグビーをしたり、場面によってプレイスタイル変えたりと、ホントに上手かったんです。
―思い出深い練習はありますか?
肩車ランパスですね。肩車をした状態でランパスをするので、上の選手同士でパスする時は下の選手は体幹がかなり鍛えられるんです。逆に下がパスする時は上の体幹が鍛えられるんです。
あと親里競技場でのランニングもやばかったです。野球場を3周、2周、1周とタイムレースをするんです。あと親里競技場の坂道をショート(10M)、ミドル(20M)、ロング(30M)を走って、その後肩車とお姫様抱っこ、おんぶで走るんです。それを同じくらいの体格同士で走るので、ペアは「夫婦」と呼ばれてました。本当にきつかったです。
―ラグビー部の同級生はどんな存在でしたか?
同級生は最高ですよね。天理を離れたら三年間同じ釜の飯を共にするってないじゃないですか。喧嘩したりいろいろなことがありましたが、面白かったですね。
あと笑いに関してはすごかったですね。内田稜馬(以下:ウッチー)や田中大治郎がいたので、めちゃくちゃ面白かったですよ。二年生の年末は「花園組」と「居残り組」に分かれるんです。M-1グランプリをマネして「勾田-1グランプリ」を居残り組でやっていたんです。ペアを組んでやるんですけど、どれも大爆笑だったそうで、ウッチーが優勝したんです。
こどもおぢがえりひのきしんでも三年生が率先して盛り上げるような学年でした。そういう面での仲の良さがありましたね。
―そんなメンバーで迎えた三年時はどうでしたか?
メンバー的には揃っていたように思います。後に花園でベスト8に進む学校にも試合で勝っていましたしね。ただ、今思うとチームでラグビーをしていたというより、個々でラグビーをしていた感じはありました。百周年で大阪からいい選手が集まっていましたが、みんなお山の大将で個性が強かったので、キャプテンの片岡佑介(以下:佑介)もチームをまとめるのは大変だったと思いますね。
―迎えた花園予選決勝の御所工業戦(12-33)、どうでしたか?
百周年、前チームは花園ベスト8、周りの期待の大きさは感じていました。負けた要因はいろいろ言われますけど、私は純粋にチーム力で負けたと思っています。当然勝つつもりで戦っていましたが、前半を12-7で折り返した時も、勝てる確信がなかったんです。いい選手が揃っていましたが、御所との差を感じていましたね。
現在に活かされる天理での学び
―竹内さんは天理高校の3年間で学んだことに、諦めないこと、目の前のことから逃げないこと、その環境を楽しむことの三つを挙げていましたね。
諦めないこと、目の前のことから逃げないというのは勝負から逃げないという意味です。例えば一年生の東福岡戦も諦めずに最後まで頑張れたし、どの試合もその気持ちで戦っていました。
その環境を楽しむというのも、例えば寮生活は縦割りで大変そうに見えるけど、楽しむことが一番なんですよね。一年生の時も部屋の中で先輩方と楽しませてもらいましたし、寮生活は三年間楽しませてもらいました。今となっては良い思い出ですね。
この三つはラグビーに限らず、私生活においてもとても活きていました。現在社会人として通っていく中でも、大事にしていることですね。
―大学は明治大学に進学されましたね。
明治では一年生の時から使ってもらい、早明戦もラスト1分出場しました。でも明治はすごくて、二年生の時はレギュラー争いに負けて早明戦は出れなかったんです。
―四年生では明治大学のキャプテンもされていましたね。
明治のキャプテンは選手間投票を四年生で行って、最終的に監督が決めていました。最後の早明戦はとても面白かったですよ。早明戦だけは観客が30000人くらい入って、本当に地響きするような、プロでもないような世界で戦えるんです。勝ち負けは一番大事なんですが、早稲田と最高の環境で試合ができて本当に楽しかったです。
―キャプテンとして対抗戦で優勝もされましたね。
天理も明治も伝統校なので常に結果を出さなければならないプレッシャーは感じていましたね。その中で結果を残せて良かったです。
―伊勢谷の振り返り―
“先輩の輝きが大きい分、後輩には大きな影になる。”
あるスポーツ雑誌に書かれていた一文です。
実力もまとまりもすごかった理道世代。先輩たちと共に戦った竹内さんの目には“輝き”はより大きく映ったかもしれません。
三年時は、整った戦力、創立百周年の旬、周りの期待などプレッシャーも大きかったはずです。
竹内さんが語っていた「御所との差」が能力以外のものだとしたら、三年間をどう捉えているのか気になったんです。
その答えは取材中に見つかりました。
「最高の同期の仲間と出会えたこと」、三年間の一番の思い出を尋ねた際の答えでした。共に苦しい中を通り、笑い合い語り合い、時にぶつかることもあった道中は、結果よりも大切な財産なのかもしれないと感じました。
取材中、厳しかった練習を語り、実演する竹内さんの姿はイキイキしていました。私も肩車ランパスをしましたが、想像を絶する苦しさでした。
「三年間こんな厳しい練習を一緒に乗り越えてきたのか」そんな心情になると共に、「同期は最高ですよね」と表現する竹内さんの言葉の強さを感じました。
(文=伊勢谷和海 写真=深谷重孝)
竹内健人さん/KENTO TAKEUCHI
1990年大阪府生まれ。中学からラグビーをはじめ、天理高校では1年時から花園で活躍、2年時は花園ベスト8進出。進学した明治大学では4年時、主将に就任、チームを14年ぶりの関東大学ラグビー対抗戦優勝に導く。卒業後はトップリーグの豊田自動織機シャトルズに加入。2020年に現役引退後は社業に専念。
伊勢谷和海/ ISETANI KAZUMI
1984年愛知県生まれ。天理高校、天理大学卒業後、天理高校職員(北寮幹事)として勤務。好きなスポーツは野球・陸上・相撲・ラグビーなど多岐にわたる。スポーツが好き過ぎて、甲子園で校歌を数回聞くと覚えてしまい、30校以上の校歌が歌える。スポーツ選手の生年月日・出身校も一度見たら覚える。高校野球YouTubeチャンネル「イセサンTV」を開設。ちまたでは「スポーツWikipedia」と称される。
ハートボタンを押してFRAGRAを応援しよう!!